死刑反対論者は権力の操り人形である

書評:『思考するクワガタ』

池田 清彦著  宝島社 


『思考するクワガタ』


  どうでしょうか。見事なカバー写真ですよね。マンディブラリス フタマタクワガタ。
著者である池田清彦先生が所有する標本コレクションだそうです。さすがです。

 で、この表紙を見れば、誰もがクワガタについて記述されている本であると考えるのは当然です。しかし、そこは池田先生のことですから、今さらクワガタについて語る興味もないのでしょう。本の帯には『ラディカルな虫屋のヨタ話!?』とあります。

 もう、この本を読んでから長い期間が経っているので、何が書いてあったのか、ほとんど覚えておりません。ならば、また読み直せばよいのではないかという、至極単純な回答が出てくると思われますが、読み直すと言う習慣が付いていないものですから、いつものごとく、とても書を評することができません。

 よって、注目すべき記述がある部分を抜粋して、皆さんにご紹介することしかできません。しかし、逆にその方が稚拙な書評と言う名の読書感想文を読まされるより、興味を持っていただけるのではないかと、一方的に解釈しました。そこで、今回に限らずこれからは、本の中に記載されている文章で、特に記憶に残っているものをそのままお伝えして、あとはお任せしたいと思います。

 くどくどと書きましたが、一言で言うと、『手抜きをしたいので、これで勘弁してください。』と言うことです。どうか、寛大なお気持ちでご了承のほど、よろしくお願い申し上げます。

 昨年の夏頃だったと思います。ヒラタの鉄人さんが脚の骨を複雑骨折し、入院しているときに、メールでクワガタに留まらず、いろんなことについてやり取りしておりました。その時に、日本の刑法について話題がでました。と言うのも、覚えておられる方も数多くおられると思いますが、山口県で、妻と幼い子どもを殺した犯人に対し、裁判所の死刑判決が確定した殺人事件です。

 かけがえのない家族を無惨に殺された父親の方は、記者会見の席でも非常に冷静に記者の質問に答えておられましたが、世の中には死刑反対論者なる人々が少なからずいるようで、この事件に限らず、死刑判決が出る度に死刑廃止を訴える内容の記事が、新聞やテレビを賑わしておりました。

 もちろん、鉄人さんも私も死刑制度には賛成の立場であり、決して廃止などしてはならないと考えている方の人間です。そこで、今回の著作から池田先生の文章を引用すると、以下のようになります。

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「敵討ち・みせしめとしての死刑」 

 社会的なルールを破った者へのペナルティーとしての死刑がいつから存在するのか、私は知らないが、それはたぶん人類史と重なっているのだろう。イスラム原理主義ではないが、死刑は何よりもまず、報復としてあったに違いない。ただ、報復は往々にして過度になりやすく、従ってイスラム教の法典もまた、目には目を、歯には歯を、と定めているのであろう。イスラムのこの法典は、多くの日本人が思っているような過激なものでも、過度の報復主義でもない、と私は思う。実はそれは過度の報復を戒めたものである。報復の情をたぎらせている者にとって、目には死を、歯には死を、になりやすいことは、別に歴史をひもとかなくとも分かる。だから権力が適正な報復がなされるように制御しなければならない、ということなのであろう。そこで、死には死を、となるわけだ。

 多くの人々が死刑制度に賛成するのは、愛する妻や子供たちを殺された者の感情を考えるためである。人々の報復欲を満足させるためにはたとえば次のような処刑の方法を考えればよい。名づけて「公開敵討ち」。

 中略

 しかし、このようなやり方で死刑を行っている国はない。なぜか。それはこのようなやり方が野蛮なためではない。それは、権力の本質が、具体的な権力行使過程を、すべて自らの手中に収めるように欲するところにあるからである。だから、もし公開処刑を行うにしても、死刑執行人は国家にやとわれた者でなければならないのである。

 報復としての死刑の次の段階は、もちろん犯罪抑止力としての死刑である。簡単に言えば、みせしめである。死刑制度に賛成する多くの人々が、遺族感情の次に挙げる理由がこれである。みせしめのための死刑が今も行われているのは、例えば中国である。

 中略

 ある人々は、犯罪抑止力としての死刑という考えに、データを挙げて反論するに違いないが、地裁、高裁、最高裁と三審もあるような国(※)で、しかも処刑が秘密裡に行われるような国で、死刑がほとんど犯罪抑止力にならないのは、むしろ当然というべきであろう。

 「死をコントロールする国家装置」 

 しかし、多くの国で公開処刑が行われないのは、犯罪抑止力があるとかないとかいったこととも、みせしめとも、実は何の関係もないのである。みせしめのために処刑をしているような権力は、権力の初歩的な段階であって、どのみちろくでもない権力なのである。それに権力が本当にみせしめを行いたいのは、権力に逆らった場合であって、ただの殺人などというマイナーな犯罪に関しては実はどうでもよいのである。

 権力行使力を手中にした権力が(何か妙な言い方だが、まあいいか)、次に採る戦略は、権力行使過程を隠蔽することである。権力は、人々が権力に従うのは、あたかも人々の自由意志であるかのように思わせたいのだ。そのためには、あからさまな権力行使過程を衆目からそらす必要があるからである。なぜ、権力がそのような欲望を持つかというと、実に、権力とは好コントロール装置そのものだからである。強制的にコントロールするなどと言うことは、好コントロール装置の戦略として愚策である。人々が無意識のうちにコントロールされていること。これが権力のゆきつく最終段階なのである。

  中略

 従って権力はあまりにも素朴なペナルティーを徐々に欲しなくなるのだ。たとえば指を切り落とすとか、目をえぐるとか、鞭打ちの刑とかのペナルティーが、成熟した権力のもとで行われることはない。かくしてペナルティーは懲罰という意味合いを徐々に脱し、矯正の色彩を帯びてくる。今や刑務所は、少年院と同じように、懲罰施設でなく、矯正施設なのである。

 しかし、ひとり死刑のみは懲罰そのものであって、矯正にはけっしてなり得ないのである。ここまで書けば、私が何を言いたいか分かるであろう。どんなに逆説的に聞こえようが、成熟した権力は、潜在的な形ではあれ、死刑を廃止しようとの欲望を持つのである。

 いまだに多くの国で死刑が廃止されないのは、「極悪人は殺せ」と叫ぶ人々のナイーブな欲望を、権力がうまく制御できないからであって、それ以外の理由からではない。逆にかなりの国で死刑が廃止されているのは、たとえ国家権力といえども人殺しはよくない、といったつまらぬ理由からではない。それは単に国家が目に見えるような殺人を欲しないからであるにすぎない。

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 感想:

 ※ 筆者注: 日本のことを指しているのだと思います。

どうでしょう。皆さん理解されたでしょうか。エッセンスだけを抜き出したつもりなのですが、分かり難かった場合はご容赦ください。

 結局、一言で言うと、権力志向の強い人ほど死刑廃止を訴えるものなのでしょう。自分自身がそれに気づいているか否かは別問題だと思います。

 新聞やテレビの論説、それに有名評論家等は、首をそろえて死刑は廃止するべきだと言っていますよね。なるほどな、と思いました。

 この書籍には、他にも憲法改正に関する話や、差別問題等の社会論から、科学の将来に関する論考、それにもちろん昆虫採集に関する話など盛りだくさんで読み応え十分です。

 以上です。

 追記: みせしめの処刑をする中国は、未だにろくでもない権力構造の上に成り立っている国なのですね。 やはり...

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 著者略歴: 池田 清彦(いけだ きよひこ) 生物学者
1947年、東京都生まれ。 早稲田大学国際教養学部教授
著書: 『構造主義生物学とは何か』、『構造主義と進化論』、『昆虫のパンセ』、『分類という思想』、『外来生物辞典』など多数



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