マニアという 名の罪人

書評:『虫の思想誌』

池田 清彦著  講談社学術文庫 


『虫の思想誌』


 
 

Amazonで古本を探していたら、偶然見つけました。「まだ読んだことがないなあ」と思いながら注文して取り寄せたところ、何のことはない1992年に青土社から『昆虫のパンセ』と題して単行本になったものを、文庫化するときに題を元に戻したものでした。元々は、1990年に『現代思想』に連載されていたもので、連載時のタイトルが『虫の思想誌』であったようです。

 『昆虫のパンセ』については、以前にご紹介させていただいたので、読んでいただいた方もおられるかと思いますが、その当時から10年以上経過して、改めて読み直して見たところ、最近はこの手の難しい本を読むのが苦手になって来ており、確実の老化(老眼も含む)が進んでいることを実感し、自分自身の衰えにがっかりした次第です。

 本書に書かれている内容は、かなり難しいと感じるのですが、それを池田清彦氏独特の言い回しによって、非常に理解し易いように平易に書かれているところが、逆に著者の凄さを証明しているようで、いつかは構造主義生物学についても読破して、理解したいと考えている今日この頃です。

 この本についても、どこから読んでも構わないと思いますが、10何年か振りに読み返して、心に残った一遍をご紹介させていただき、ぜひ著者の文章のみによる表現能力の凄さを、ぜひ肌で感じてください。

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「マニアという名の罪人」 

 さて、ルソンカラスアゲハも商取引を摘発したという朝日新聞の社会面のトップ記事を見て、私が抱いた疑問は、マニア=罪人という物語に、マスコミがこれ程までに執着する理由は何かと言うことであった。何と言っても朝日新聞(の一部の記者)は、サンゴを自ら傷つけた写真を載せてまで、マニア=罪人という物語を流布しようとした位であるから、よほどマニア=罪人物語に魅力を感じているに違いない。

 中略

 ここに至って、なぜ大新聞がマニア=罪人物語を流布したがるかという理由の一端がほの見えてくる。

 まず、マニアは完全なる少数者であって、多数派になることは決してないこと。これは次の二つの事を含意する。一つはマニアを非難している限り、その非難が我が身にふりかかってくる危険はないこと、一つはマニアの求める貴重な昆虫類はマニアが非常な少数派であるという理由により、市場価値は微々たるもので、これを市場から完全に排除しても、資本主義経済には露ほどの打撃もないこと。 

 ところで、現代資本主義下で生きるすべての人々は、好むと好まざるとにかかわらず、自己制御不能な、資本主義的環境破壊に加担している。労働とは自然を収奪することの別名であるから、真面目に働くすべての人は不可避的に世界的な規模での自然破壊を推進している。しかも具合が悪いことには、自然破壊は今やだれの目にも明らかで、人々は自分も自然破壊の張本人の一人であることにうすうす感づいているのである。このような構図の下では、誰かをスケープゴートに仕立て上げて、人々の精神の均衡を保つ物語が歓迎されないはずはない

 大衆に媚びる事では自民党も顔負けの大新聞が、こんなにおいしい話を見逃すわけがない。

 かくして、大衆も資本も多数派は誰一人として傷つかないマニア=自然破壊の張本人という物語が流布され、人々はマニアという名の罪人を大新聞の尻馬に乗って非難することで、自然保護に(心情的にではあっても)少しは加担している自らを見出して、自然破壊の張本人たる実像との均衡をとって、心安らかになれるのである。

 自らが傷つくことなく正義の物語を語る者はみにくい。彼らはいつか、少数者が絶滅して少数者を抑圧する物語が不必要になったあかつきには、当の少数者は実は英雄だったのだという伝説を語ることになるに違いない。

  感想):「趣味は何ですか?」と訊ねられ、「クワガタムシの採集と飼育です」と答えたところ、相手の様子が少し変化することを感じておられない方はいないと思います。クワガタムシの採集と飼育とは、そのように世間では際物趣味だと思われている動かし難い証拠ですよね。

 趣味で人を差別視する人は、あらゆるものに対して差別意識を持っています。

 醜く、かつ忌まわしい人たちですね。

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 著者略歴: 池田 清彦(いけだ きよひこ) 生物学者
1947年、東京都生まれ。 早稲田大学国際教養学部教授
著書: 『構造主義生物学とは何か』、『昆虫のパンセ』、『思考するクワガタ』、『分類という思想』、『外来生物辞典』など多数

 


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