車もこないのに赤信号で待っている人はバカである

書評:『他人と深く関わらずに生きるには』

池田 清彦 著 新潮社

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『他人と深く関わらずに生きるには』


 突然ですが、私はボランティアが嫌いです。 私に言わせれば、ボランティアとは親切(と勝手に思いこんでいるだけ)の押し売りであって、押しつけられたほうに取っては、ありがた迷惑な行為だと考えております。にもかかわらず、社会一般の(間違った)常識によると、ボランティアは世の中に役立つ行為とされている為、安易に断ることもままなりません。実に困った(思い上がった)制度だと言わざるを得ません。

もともと、自発的に活動することで成り立ってきたボランティアも、今日では学校の課外活動や教員養成時の実習等に盛り込まれたりして、まさに押しつけ以外の何物でもないような気がします。本末転倒とは、このことではないでしょうか。

 ボランティア活動に意義を見出している人は、どのように考えているかわかりませんが、真のボランティアとは一切の見返りを期待しないものです。しかしながら、実際にはボランティアをすることによって、「人から感謝されたい、ありがたがってもらいたい、場合によっては尊敬されたい」という功名心や邪心が心の奥底に潜んでいるのではないでしょうか。

 ほんとうに労働力が必要なら、報酬としてお金を払うべきですし、働いた方も要求するのが筋であって、ボランティアと称してタダ働きを正当化するのは、全く持って納得が行きません。また、「ボランティアだから、報酬を得ていないから」と言って、何かトラブルが発生したときの責任逃れの言い訳に利用されるのも無責任極まりなく感じます。

 このようなボランティア活動と称した偽善活動につき合われる方は、たまったものではありません。感謝の意を表さなければ人間性をも疑われかねませんので、非常に対処が難しくなります。

  そうした意味では、「育児」こそ真のボランティアではないだろうかと最近考えるようになりました。親が子を思う気持ちは理屈や損得抜きだと思います。(少なくとも、私はそうです。)

 では、それ以外はどうでしょう。残念ながら、何をするにも某かの見返りを期待してしまっている悲しい自分自身の姿しか見えてきません。見返りが金銭であれば、まだ救いようがあると思うのですが、相手の気持ちに訴えるような形のない曖昧なものであると、非常にやっかいと言わざるを得ません。

 相手は何とも感じていなくても、こちらが一方的に恩を売ったと考えることも十分ありえますし、その逆もしかりです。人間同士の争い事は、このようなお互いの認識の違いから生じているのではないでしょうか。

 こうした状況から脱却するのは簡単です。つまり、(家族や親戚を含めて)自分以外の人には、何も期待しない(頼らない)ようにすることです。人を頼らないようにすると裏切られたと感じることもありませんので、恨む気持ちも生まれません。同時に、人から頼られなければ恨まれることもないでしょう。

 要は、自分自身のことは自分で決めて行動すると言うことだと思います。人の意見はあくまで参考程度に聞いておく程度に留め、責任は全て自分にあるとするスタンスを取ることが大切なのではないでしょうか。

 構造主義生物学者であり、生粋のムシ屋である池田清彦さんに言わせると、「自力で生きて、最後は野垂れ死ぬのが格好いい生き方」だそうです。

 最近のニュースを見ると、「生きる目的が見つからない、人生に絶望した。」として自殺を考える若い人がいるようで、おまけに情けないことに自分一人では自殺することもできず、ネットを通じて仲間と称する道連れを探しているらしいではありませんか。

 才能のある人、成功する人はほんの一握りしか存在しません。大半の人は、一生懸命努力したとしても報われないのです。しかしながら、そんなことで人生に絶望していては誰も生きて行けませんし、努力する事がムダだと決めつけることもできません。ムダを承知で努力するところに価値があるのです。

 人間ならばどんなにイヤでも、最終的に100%死ぬことは約束されているのですから、せめてその時が来るまでは、いかに平凡な生活であっても懸命に生きる方が余程価値ある生き方だと思います。

 実際、平凡な生活を送り続けることがどれだけ大変なことか、若い人は理解していないのではないでしょうか。何事も継続することは大変なのです。

 他人に頼ることなく、自力で生きて行こうと決心した人は、ぜひ一度ご一読いただくようお勧め致します。

 


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