68年目の「原爆の日」を前にして 》

Jimmy


 
 
まもなく(2013年8月6日)、広島市に原爆が投下されて68年目の「原爆の日」がやって来ます。戦後68年が過ぎ、戦争体験者、原爆犠牲者が年々少なくなって行く今日、この過去に起きた人類最大の蛮行を、日本人として決して忘れてはならないと思います。

 しかし、原爆を投下した連合国(特に当事者のアメリカ合衆国)を責めるわけには行きません。それはお門違いというものです。ルールのある闘いはスポーツであって、ルールのない闘いだから『戦争』なのです。つまり、戦争では何でもありなのです。

 みすみす殺されるぐらいなら、誰しも反撃するでしょう。それは生物としての本能だと思います。「大量破壊兵器だけは使うな、毒ガスのサリンだけは使うな」など、殺すか殺されるかの闘いに、ルールを設けていったいどうするのでしょう。頭がおかしいとしか思えません。「自分が殺されるぐらいなら、何でも使う」それが戦争であり、それが当たり前なのだと思います。核兵器の廃絶など夢物語です。もっと現実を直視しなければ、原爆の犠牲になった人が浮かばれません。

 だからこそ、絶対に戦争を始めてはいけないのです。 

 原爆を投下したアメリカ合衆国を非難するのではなく、まさしくそれが戦争の本質であると言うことを再認識する機会、決して忘れない機会として、「原爆の日」があるのではないでしょうか。

 原爆のような願酷な兵器を二度と使ってはいけないことを世界に発信するのではなく、戦争になると原爆さえも人間は使用すると言うことを、後世までも伝えて行く義務が、世界唯一の被爆国民である日本人の使命であると思います。

 人それぞれ、「原爆の日」を前に思い起こす術があるかと思いますが、私は次の詩を死ぬまで聞き続け、原爆の記憶を忘れないようにするつもりです。

 

いつも見ていたヒロシマ

作詞:岡本おさみ

(著作権保護のため、一番のみ記載しております。)

八月の光が オレを照らし

コンクリート・ジャングル 焼けつく暑さが

オレの心を いらつかせる

いやせない みたせない なぐさめもない

深い祈りと 深い悲しみ 渇いた心をかかえて

オレはどこへ行こう 君はどこへ行く

時はおし流す 幾千の悲しみを

時は苦しめる 幾千の想い出を

焼けつきた都市から 確かな愛が聞こえる

子供らに オレ達が与えるものはあるか

安らかに笑う家は いつまであるか

いつもいつも 遠くから遠くから 見ていたヒロシマ

ぜひ、吉田拓郎氏の歌も聴いてみてください。


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