進化的重要単位であるヒラタクワガタ

書評:『クワガタムシが語る生物多様性』

五箇公一 著  集英社


『クワガタムシが語る生物多様性』


 

  私は生まれつき、左利きで字を書くことから箸を持つとき、ボールを投げるとき等、すべて左手でこなしていました。そのため、小学校の頃から家族はもちろん、学校の先生からも、右利きに直すように再三指導(という名の命令)を受けて育ちました。私にはその理由がよく理解できなかったのですが、左利きは恥ずかしいこと、欠点(というより欠陥)であり、大人になるまでに直しておかなければ、就職にも響くようなことを言われたのを今でも覚えております。

 「左ぎっちょ」と言う差別的用語があって、親戚の人と一緒にご飯を食べる機会があった時も、「あんた、ぎっちょか!」 と驚かれ、忌まわしい者を見るような視線を送られたことを、昨日のことのように思い出します。

 高校時代(今から35年ぐらい前)、山登りで長野県駒ヶ根市の民宿に一人で泊まることになり、宿帳にサインしようとすると、受付の人が小さな声で、「いや〜、この人、左手で字を書いてるわ」と、生まれて初めて見る生き物のように見られたこともありました。

 時代は変わり、今では左利きの人が、左手でご飯を食べるところがコマーシャルでも流れるようになり、外で食事をするときも周囲の視線を気にすることなく、堂々と左手で箸を持ってご飯を食べることができるようになりました。実をいうと、右手でも食べられることができるようになったのですが、利き手である左手で食べる方がおいしく食べられるので、右手は絶対に使いません。

 左利きに対するいわれのない偏見や差別は、昔に較べるとずいぶん少なくなったのではないかと思っております。私より一回り下の世代からは、そのようなことにあまり気にしなくなっているのではないでしょうか。ただし、なくなったとは思っておりません。ただ、表だって言わなくなっただけで、本音はどう思っているのか怪しいものだと思っています。

 字だけは右手で書くほうが書きやすい(特に英文を筆記体で書くとき)ので、右手で書くようになりましたが、テレビを見ているとアメリカ合衆国のオバマ大統領、その前のブッシュ大統領、さらにその前のクリントン大統領は左利きらしく、左手でサインしているところを見て、英文を書くために右手で書くように直した自分が情けなくなりました。リーダーになるような人は、そんなことを気にしないのですね。

 前置きがずいぶん長くなってしまいましたが、この例えのように右利きや左利きと言う属性も生物多様性のひとつであり、決して恥ずかしいことではないと今では思っています。ちなみに、私の両親は右利きで、息子も右利きです。

 本書は、このように生物多様性と言う理解し難い言葉を、簡単に理解できるように工夫されたものであり、その一例としてクワガタムシ、中でもヒラタクワガタを取り上げて、解り易く説明されています。
 
 ヒラタクワガタの生物多様性を調べるために、国産のヒラタクワガタ(離島産のヒラタクワガタを含む)や、東南アジアのヒラタクワガタの遺伝子(DNA)を調べた結果が報告されていますが、ここではその一部をご紹介します。

1.日本列島のヒラタクワガタの祖先は、中国大陸で誕生した。

2.氷河期に、海の水位が下がって浅くなり、日本列島と大陸がつながっているときに、中国大陸のヒラタクワガタが日本に渡ってきた。

3.氷河期が終わって、再び海の水位が上がり日本列島と大陸が離れて、島に取り残されたヒラタクワガタ集団は、独自の進化を遂げた。

4.また氷河期がやってきて、日本列島と大陸がつながったときに、中国大陸から新しいヒラタクワガタの系統が日本に渡ってきた。一部は古い系統を押しのけて、分布がすり替わったものもいた。

5.氷河期が終わり、再び日本列島の島々に取り残された集団が独自の進化を遂げた。

6.このように、氷河期と間氷期のくり返しの中で、中国大陸からヒラタクワガタの様々な系統が何度も渡ってきては、島に取り残されて進化する、という移動と分断をくり返し、様々な固有の系統が亜種として島ごとに誕生した。

7.その歴史は、今から約210万年前に始まり、約10万年前までの200万年もの時間をかけた長いものであった。


 このように、日本列島のヒラタクワガタには、長くて複雑な進化の歴史が刻まれていることが、遺伝子(DNA)調査の結果明らかになりました。このような、独自の進化の歴史を背負った生物集団を、生態学の分野では「進化的重要単位」と呼ぶそうです。

 東南アジアのヒラタクワガタについても同様の結果が出ているそうで、こちらは500万年以上の時間をかけてできあがった、様々な「進化的重要単位」が存在することが明らかになっているそうです。

 著者が心配しておられるのは、すでに皆さんもご存じの通り、外国産ヒラタクワガタの輸入によって日本のヒラタクワガタの「進化的重要単位」が破壊されてしまうのではないかと言うことです。 その根拠として、日本のヒラタクワガタと東南アジアのヒラタクワガタを交尾させる実験を行ったそうです。

 当初の予想では、仮に交尾できたとしても子供は生まれないと思われていました。なぜなら、それぞれのヒラタクワガタは500万年以上もの間、別々の進化をしてきており、遺伝子(DNA)組成を比較しても、別種と言ってもよいほど異なっていたからだそうで、これだけ遺伝的に違いのある種同士で、遺伝子のやり取りができるということは、生物学的常識からは考えにくかったようです。

 ところが、交尾実験の結果、日本のヒラタクワガタと東南アジアのヒラタクワガタは簡単に交尾して、子供もたくさん生まれ、すべて立派な雑種のクワガタに成長したそうです。さらに、生まれた雑種のオスとメスを交尾させると、また次の世代が誕生し、5世代目になっても、まだ繁殖が可能のようです。

 つまり、外国産ヒラタクワガタを野外に放すと、容易に日本固有のヒラタクワガタと交尾して雑種が生まれ、それが繰り返されることによって、200万年以上かけて築かれた日本のヒラタクワガタの「進化的重要単位」がなくなってしまう恐れがあるとのことでした。

 ちなみに、日本のヒラタクワガタと東南アジアのヒラタクワガタは簡単に交尾すると言うことを哺乳類に当てはめて考えると、人間とチンパンジーが交尾することに等しいそうです。

 生態学者である著者の視点から考察すると、日本のヒラタクワガタの「進化的重要単位」がなくなってしまうことが残念でならないのだと思います。200万年以上かかって築き上げた歴史が水泡に帰してしまう訳ですから。

 それを防ぐには、当たり前のことですが、外国産ヒラタクワガタを野外に放さないようにすることに尽きます。しかし、何の罰則もない飼育する人のモラルに頼ったお願いだけでは、とても防ぐことができないのが現実だと思います。毎年100万匹以上もの外国産クワガタが輸入されている現在、すでに相当数の外国産ヒラタクワガタが、何らかの理由で野外に放たれていると思います。 (逃げ出した個体もいるはずです。)

 では、なぜそのようなリスクがあることを分かっていながら、農林水産省はどのような根拠に基づいて外国産クワガタの輸入を許可したのでしょうか。今まで通り、外国産クワガタは輸入禁止にしておけば、このような問題は起こらなかったはずだと思います。少なくとも、私は農林水産省からこの件に対する回答があったとは聞いたことがありません。

 外国産のヒラタクワガタを飼育している人が、著者のように生態学者的見地からクワガタムシを飼育しているとは思われませんし、それを強要するのは考え方が間違っていると思います。日本の生態学者は、農林水産省に外国産クワガタの輸入を再び禁止するように強く働きかけることが先決なのではないでしょうか。 農林水産省の見解を聞きたいと思う今日この頃です。

追記:

 著者の専門は「ダニ学」だそうで、国立環境研究所でダニの研究をされておられるそうですが、クワガタ愛好者にとってダニと聞けば、すぐに思い当たるのがクワガタナカセと言う名のダニではないでしょうか。

 クワガタナカセは、クワガタムシの体表に溜まるゴミやカビを食べて生きているダニで、羽化したばかりの若いクワガタには付かないそうです。また、短命なクワガタムシには付かず、2〜3年生きるオオクワガタやヒラタクワガタ、コクワガタに寄生することもわかっているそうです。このダニにも生物多様性があるそうですが、そのあたりに興味がある方も、ぜひ一度ご一読ください。

 あるとき、国立環境研究所を見学された天皇、皇后両陛下がこのクワガタナカセの絵を見られて、皇后陛下が「これはクワガタナカセですね」と、著者に尋ねられたそうです。何と、皇后陛下はクワガタムシに寄生するダニのクワガタナカセをご存じだそうで、皇室には何の興味もありませんが、皇后陛下に対して親近感が湧いた次第です。
 

著者略歴: 五箇 公一(ごか こういち) 生態学者
1965年、富山県生まれ。 京都大学博士(農学)
1996年、国立環境研究所入所:侵入生物の生態リスク研究、他