秀頼・淀殿自刃の地     豐臣秀頼・淀殿自刃の地


母子 策士の謀略に陷り


自刃したり 猛火の大坂城 


豐臣の痕跡 灰燼に歸し


今 殘るは 母子の石碑一つとは

                                                                                   








                                                                                    

                   大坂城跡  (大阪市中央區大阪城)

慶長五年(一六〇〇)九月、關ヶ原の戰いで
勝利した家康は、方廣寺の鐘銘で難癖をつけ、
大坂冬の陣を起こした。そして、和議の條件
を僞り、裸城同然にしておいて、翌年の元和
元年(一六一五)五月、夏の陣の決戰で、一
萬五千五百余名の大軍を送り、大坂城を攻撃
した。秀頼、淀殿等は耐えきれず、遂に内部
に火を放って自殺した。秀吉の築城から三十
三年目の天下の名城も灰燼に歸した。今の大
阪城の遺構は、すべて江戸期のもので、豐臣
時代の遺構は何も残っていない。

母子 ぼし  淀殿と秀頼を指す

策士 さくし  徳川家康を指す

謀略 ぼうりやく  人を落とし入れるはかり
               ごと

陷 おちい

痕跡 こんせき あとかた

灰燼 くわいじん  灰ともえかす

  

                                                                   


                                        

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