リンク集

 文語文のサイト


   文語の苑  

 文語文の復活を提唱し、實踐を試みているサイトです。掲載文語文は、歴史的假名遣を必須とし、漢字は康煕字典字體(正字體)を推獎しています。私の「訓讀漢詩風・四行詩」も、圖らずも、この理念に沿って作られています。我が國に於ける唯一の文語文提唱サイトとして、裾野が擴がることを期待しています。



  
自然と人生

 
明治時代の小説家徳冨蘆花の文集『自然と人生』の一篇「良夜」を載せたサイトです。漢語・漢文脈を驅使した流麗な文語體の名文で、いわば、散文詩です。讀み進むにつれて、良夜の映像が鮮明に浮かび、聲を出して讀めば、心地よいリズム感に陶醉します。微力ながら、訓讀漢詩風の詩作を手掛けている私にとって、これは、まさに、仰ぎ見る文範です。


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氷島 

  萩原朔太郎の朗吟・文語詩集サイトです。朔太郎は、『月に吠える』、『青猫』等により、口語自由詩を確立した近代詩人として、詩史に特筆されますが、晩年の1934(昭和9)年には、一轉して漢文訓讀體の文語詩集『氷島』を刊行しました。この序文で、彼は下記の言葉で結んでいます。私の詩集は、「朗吟・文語詩」を標榜していますが、實は、この序文の通り、朔太郎は、既に80年前に、それを強く打出しているのです。

 
 すべての詩篇は「朗吟」であり、朗吟の情感で歌はれて居る。讀者は聲に出して讀むべきであり、決して默讀すべきではない。これは「歌ふための詩」なのである。


    斷腸亭日乘    

  永井荷風の文語體日記で、その一部を載せているサイトです。日記は、1917年(大正6)9月16日から59年(昭和34)4月29日迄の40年間にわたって綴られています。 時代批判、世相と俗物人間への痛罵、女性遍歴、移り行く景観の描写等歴史に殘る貴重な日記です。内容も大變面白いのですが、私はその文語體に魅力を感じ、繰り返し愛讀しています。


  漢詩のサイト


  桐山堂

  葛飾吟社

私の詩は、漢詩ではありませんが、漢詩は私にとって、詩作の原點であり、リズム律の母胎です。上のサイトが參考になります。


  詩核についてのサイト


    金子みすゞの詩

  大正末期から昭和初期に活躍した童謠詩人・金子みすゞさんの代表作品を紹介したサイトです。
このサイトを通して、
「詩の命(詩核)は、何に基づくのか」「名詩とはどういうものか」、ということを考えます。先ず、彼女の代表作品の一つ、「大漁」を見てみましょう。


                            大漁                                           


     朝燒小燒だ     大漁だ      大羽鰮
(おおば いわし)の      大漁だ。

     濱は祭りの     ようだけど    
海の中では    何萬の   鰮(いわし)のとむらい   するだろう。


 この詩の核心は、後半にあります。前半は、人間の視線ですが、後半は、海中の鰮への視線に轉換しています。魚の命に對する悼みと慈しみをうたっているのです。みすゞさんの詩は、この詩に限らず、森羅萬象、詩の對象を、見えるものだけでなく、見えないものにも、鋭い視線を注ぎ、そこに命を發見しています。

 この、ものの實相を見極める鋭い心の働きを、心眼というようですが、彼女の心眼は、まさに天才そのものです。そして、そこに宿る命に、まるで、菩薩の化身のように、優しい慈愛の心を注ぎ、それを眞珠の言葉に轉化させているのです。それが、彼女の詩です。

  みすゞさんの詩は、童謠詩と言われます。しかし、一見、童謠のように見えながら、實は、大人の詩が多いのです。もし、上掲詩の後半が、前半と同じく、人間の視線のままの、大漁祝いの詩に終始していれば、單なる童謠になっていたでしょう。しかし、みすゞさんは、實際は、大人の評價と鑑賞にも耐える、この奧の深い名詩を創つたのです。

 彼女の詩は、このように、老若あらゆる世代の心に響く普遍的な國民詩であると言えます。彼女の詩を暗誦し、朗唱すれば、豐かなイメージと優しい音が響き合い、みすゞさん特有の安らぎの世界に導かれ、心が清められる人が多いのではないでしょうか。


 彼女の詩を口ずさむ度に、
「詩の命(詩核)は、言葉以前、創る人の心眼に宿る」、と痛感します。詩の命(詩核)とは、感動の心です。作者が、詩の對象を心眼を以て見つめ、そこに宿る命に感動し、その感動を、これを味わう他者に言葉を通して、傳播し、その心を共振させ、響かせれば、初めて詩と言えるのです。

 言葉はそれを傳える媒體であって、主體ではありません。「金銀寶玉の言葉あれども、心に響く詩核無し」では、詩とは言えないでしょう。言葉の達人である言語の學者が、必ずしも詩人になれる譯ではないのです。「詩に別才あり」とは、このことを言っているのでしょう。

 私は、みすゞさんの詩から、「自分の詩は、對象を心の眼で見つめているだろうか、そして、實相が見えないで、從つて、感動する心も起きないまま、唯言葉だけをを踊らせていないだろうか」「自分は、本當に詩を創つているのか」と、自問自答するばかりです。


 更に、みすゞさんの詩から、歸納して、
「名詩とは、他者が、作者の詩を讀み、理解し、共感と感動を覺え、更に、聲を出して讀めば、音律がよく響き、自ずと暗誦・朗唱に及ぶものを言う」、と定義してみましょう。そして、自分の創るものは、この定義のどの段階にあるのかを、敢えて顧みてみましょう。

 そうすると、自分の創つているものは、殘念ながら、他者―普通一般の讀者―には、讀めず、理解されず、從って、共感・感動には到底致っていないのではないか。名詩どころか、むしろ、詩以前の、言わば、漢語羅列のお經ではないのか、と考え込んでしまいます。そうして、祈るのです。「嗚呼、神よ! 願はくば、我に詩才を與へ給へ。然らずんば、心眼を與へ給へ」と。

                                                                         以上

                                   

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