第8回(2018/03/01)

異人觀(いじんかん)反轉(はんてん)今昔(こんじゃく)(かわ)れば變るものである~

 ■ はじめに

  外國人觀光客の増加で、電車内でも歐米人を間近に見るようになつた。彼等の相貌(そうぼう)は、映畫(えいが)やテレビで見慣れているはずだが、眼前で見る彼等から受けるインパクトは隨分違う。

  深目高鼻(しんもくこうび)紅毛碧眼(こうもうへきがん)、小頭小顏、容姿端麗、長足長身、體格強健(たいかくきょうけん)等の(たい)()で、東洋人にはないエキゾチックなオーラがある。一見、どの人も俳優のように見える。人は、内實(ないじつ)はともかく、外見に強く影響を受けるが、その典型が歐米人からであろう。 

 
が、幕末期の日本人は、今のように、歐米人を見ていなかった。彼等を、文明人の對極(たいきょく)に位置する夷狄(いてき)野蠻(やばん(じん))と蔑視(べっし)していたのだ。しかし、時移り、今日、異人觀は、昔の(いん)から今の(よう)に反轉した。以下に、異人觀反轉の今昔を記し、その感慨を綴る。


 ■ 異人への畏怖(いふ)

 「泰平の眠りを()ます上喜選(じょうきせん)たった四杯で夜も眠れず」。この狂歌が示すように、大老井伊直弼(たいろういいなおすけ)が、日米通商條約締結に突き進んだのは、この不氣味な黒い蒸氣船と大砲に威嚇(いかく)され、その背後に潛む強國の壓力(あつりょく)に屈したからであろう。

  それに加えるに、彼等巨漢の威風堂々たる威力にも畏怖を覺えたからかも知れない。歐米人と直接接觸した日本人の目には、歐米人達は、得體(えたい)の知れない「異人」だったに違いない。


  幕末・維新期の異人襲撃事件

 
 日米通商條約の締結は、尊攘派(そんじょうは)を刺戟し、幕末・維新期には、異人襲撃事件が頻發(ひんぱつ)した。その内、攘夷(じょうい)思想(しそう)による、主な事件を以下に()げる。攘夷思想とは、儒學(じゅがく)における華夷思想(かいしそう)を素地としており、歐米諸國は卑しむ可き夷狄(野蠻人)だから、實力(じつりょく)で打ち(はら)うべきだとする考え方である。つまり、「異人を追つ拂え!」という排外思想だ。その端的な現れが、幕府が1825年(文政8)に(はっ)した異國船打拂令(いこくせんうちはらいれい)である。

  
 水戸藩攘夷派(じょういは)英國人襲撃事件(第1次東禪寺(とうぜんじ)事件)


   井伊直弼が、櫻田門外で水戸の尊攘派に暗殺された翌年の1861年(文久元)5月28日、芝高輪(しばたかなわ)東禅寺の英国公使館が、攘夷派の水戸浪士14人に襲撃され、英国人が傷を負った。犯人の内、3人は自殺、1人は逮捕された。逃亡した残りの犯人等は逮捕に至らず、幕府は賠償金1萬ドルを支拂い決着した
(「日本全史 講談社」)。 當時の狂歌ー「佛法(ぶっぽう)鐵砲(てっぽう)にする水戸っぽう、()(ほう)八方(はっぽう)公方(くぼう)貧乏」。

 
   松本藩警士の英國人襲撃事件(第2次東禪寺事件

 
  この第1次東禅寺事件で、警護は強化されたが、今度は、1862年(文久2)5月29日、事もあろうに、その警護担当松本藩の1人が、忍び寄り、英国人2人を斬殺(ざんさつ)した。警備の英国人はピストルで犯人の襟首(えりくび)を射抜いたが、逃走された。

   報復を恐れた幕府は、必死で捜索、屋敷で重傷を負って寝ていた犯人を逮捕した。彼は切腹した。


 ✩   薩摩藩士の英國人襲撃事件(生麦事件)

   
 1862年(文久2)8月21日、薩摩藩主の父、島津久光の行列が、生麦村(横浜)に差掛かった際、英国人が騎馬のままで、行列に遭遇、怒った従士が斬りかかり、英国人4人の死傷者が出た。幕府は、英國に對して、10萬ポンド(今の160億圓)という膨大な賠償金を支拂つた(「幕末史 半藤一利著 新潮社」)。英国は、幕府とは別に薩摩藩に対しても犯人の逮捕・処刑と賠償金支払いを要求、その報復措置として、英国艦隊を鹿児島に回航させ、これが、1863年(文久3)7月12日、薩英戦争の發端(ほったん)になった。薩摩は、この戰爭で敗北すると、生麥事件の賠償金として、2萬5千ポンドを支拂うことで、同意した(「幕末史」)。

 ✩   土佐藩兵のフランス水兵襲撃事件(堺事件)

    
明治維新期の1868年(慶応4)2月15日、堺に上陸し乱暴を働いたフランス軍艦水兵と、同地区を警備していた土佐藩兵とが衝突、フランス水兵11名を死傷させた。新政府は、攘夷を捨て、開国和親の方針をとっていたが、一般の兵士には、攘夷気分が濃厚で事件に(つな)がったのだ。

    フランスは厳しく抗議、下手人
20人の処刑が決定、堺の妙国寺で、執行された。が、11名切腹したところで、あまりの凄惨(せいさん)さに、立会人が中座、処刑は中止された。残りの9名は流罪となった。新政府は、15萬ドルの賠償金を払って結着した。


 
異人襲撃事件の代償 

      上述の通り、攘夷思想に基いて、頻發した異人襲撃事件により、外國の膨大な賠償衾の要求に、幕府や藩等は、唯平伏して應じるばかりだった。もし、これを拒否すれば、砲撃の洗禮(せんれい)を受け、江戸等は火の海になることを恐れたのだろう。幕府等の金倉は拂底(ふってい)しかねないにも拘らず、背に腹はかえられなかったのだ。攘夷思想に發する異人斬りの代償は、賠償金の面でも、幕府等に重くのしかかっていたのだ。

 ■ 攘夷思想の消滅

    1863年(文久3)、薩摩藩が攘夷を実行した薩英戦争や、同時期の長州藩による下関戦争は、日本側の大敗北に終わり、外国艦隊との圧倒的な軍事力の差を痛感した。これを契機に、鎖国政策の維持に固執した攘夷思想は、やがて消滅、攘夷派は方向を転換し、倒幕運動へと舵を切り換えた。
 

  攘夷思想に翻弄(ほんろう)された藩士達

   幕末に頻発した外国人襲撃事件は、幕府の鎖国政策の根幹に根ざす攘夷思想に洗脳され、時代の激變に翻弄された諸藩藩士達の暴挙であった。が、自分達が信じた幕府の攘夷思想に忠実であったが故に、皮肉にも、逆に犯罪者として処罰されたのである。

    攘夷思想は、すでに、時代の變化に對應(たいおう)できなくなった亡靈思想にも拘らず、藩士達は、それを疑わず、その思想に殉死したのである。いわば、時代激變に取り殘された不幸な犧牲者だったのだ。

 ■ 維新の幕開け、忽ち「文明開化!」の大合唱

    そのわずか10年後、明治維新の幕が開けるや否や、世は、「文明開化!文明開化!」の大合唱と共に、世人は歐米人の追つかけを始めた。例えば、彼の「鹿鳴館(ろくめいかん)」における歐米人に對しての猿眞似を見よ
(フランスの畫家(がか)、ビゴーに描かれた鹿鳴館における日本人の諷刺畫(ふうしが)。ほんの一昔前は、「攘夷だ!攘夷だ!」「(えびす)共をを追つ拂え!」と刀を振り囘して、異人達を追い廻していたのにである。

 
 終わりに

   時移り、今年は明治維新150年。日本人の異人観は、激変した。今は、欧米人を「異人」とは言わず、「外人」と呼ぶ。茶髪、隆鼻、白面、体形等の整形から、名前等の欧風化に至るまで、欧米人に對しては、彼の蔑視(禽獣(きんじゅう)毛唐(けとう)、野蠻人等)から、羨望(せんぼう)と模倣、憧憬(しょうけい)の対象へと、見方は反轉した。變れば變るものである。思うに、幕末、攘夷思想に殉死した藩士達は、彼方の幽界(ゆうかい)から、今日の日本をどう見ているだろうか。

                                                                                                                                               以上


                                                                                    

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