どきどきポヤッチオ


どきどきポヤッチオ。
このゲームはジャン君(仮名)となり、プエルコルダンでの一月の夏休みを体験する物だ。
プエルコルダンにはジャン君のいとこのねーさんほか、数十人の住人達がいる。
彼らとのふれあいを通してジャン君(仮名)と同じ年代の頃(確か11歳)の心を思い出すことが出来るものだ。(多分)
まぁ、ゲームの解説をいくらしても仕方ないのでこの辺で。実際にやって貰った方が遙かに早いし(^^;
まず、A.でも書いた、ポヤは「夢」である、と言うところについて話をしようかな。あ、生活感のあるゲーム、に関してはまた後ほど。
ポヤは夢である。プエルコルダンでの生活はゲームであり、現実であり、夢であるのだ。
私はジャン君(仮名)として数度、プエルコルダンに遊びに行ったが、そのたびに、自分の少年時代の記憶や夢とダブることが何度かあった。ああ、こんな事あったな、俺もこうだったな、とか。それは悪ガキ連中との会話の中にも感じたし、ねーさんや先生との会話でも垣間見ることが出来た。
そう。これは自分の少年時代を懐古したり、少年時代に出来なかったことを出来る、そういう物だ。
他の、一般的なRPGやアドベンチャーと違うのはここだ。
自分のやりたいようにやる。やらなきゃいけないことは毎日のお手伝いだけ。後は全部、自分の自由だ。一日の内の数時間は自分のものだ。その時間の中で材料集めに走るのも良い。悪ガキどもと遊ぶのも良い。自分だけの秘密の場所に行くのも良い。日が暮れるまで駆け回り、夕食に間に合わずにねーさんに怒られるのも良い。まさに、自由なのだ。
もちろん、自由=夢などとは言わない。しかし、私の持論である「ゲーム=夢」を再現してくれているゲームは、これしかない。
ポヤは「生活感のある」ゲームとして有名かと思う。では、「生活感のあるゲーム=夢」なのだろうか。 「生活感のある」ゲームというものはポヤ以前にも幾つか言われていたが、最も有名なものはワールドネバーランドだろう。では、これも「生活感のあるゲーム=夢」という図式が成り立つのだろうか。
答えは否である。
申し訳ないが、ワーネバは、人生は単調でつまらない繰り返しなのだよと言う認識を深めさせてくれるゲームなのだ。仮に、現実世界で記憶そのままで人生を繰り返し数度過ごせるとしよう。それは、つまらない行為の繰り返しなのだ。人生は、所詮は「成人して子供を残す」為の物なのだ。生命活動はそれに集約される。文化的活動は、あくまでおまけなのだ。そのおまけをいくら楽しもうとしても限界がある。おまけはおまけでしかない。ワーネバが再現したかったのは、この「おまけ」の部分だったのでは無かろうか。配偶者を捜して子孫を残す、と言う点では最近出た「俺の屍を越えてゆけ」もあるが、あれは純粋に「子孫を残す」事に重点を置き、成長させるためにおまけの戦闘をこなすという物だ。これはこれで良い。血を繋げるのに飽きたらそれでおしまいなのは明白だから。それに対してワーネバは毎日オルグで仕事をし、黙々と体を鍛える。その結果でオルグ長になり、親衛隊になり、新鋭隊長になり、国王になれる。でも、結局やっていることは一緒。やるべき事も一緒。まさにパターン化された日常を過ごすという点では「生活感がある」のかも知れない。しかし、その中に夢はない。あまりにも現実的な生活感はつまらない物だという認識を忘れてはいけない。
一方のポヤ。一部では「結局キャラの行動は決まっているんだから生活感なんて無いじゃないか」と言う人もいる。
それはそれでも良いだろう。じゃ、私は聞きたい。「あなたは毎日決まった生活をしているんじゃないか?」と。朝決まった時間に起き、同じルートで通勤通学、似たような仕事、勉強をして同じルートで帰宅。その後の時間は色々あっても結局は毎日似たようなことをして、最終的には同じ時間に寝るのだ。人間は所詮パターン化された人生を送っているということに気付いていない者が生活感を語るべきではない。
その中のイレギュラー、友人に誘われて遊びに行った、ふと思い立って本を買った、そういう物が生活ではなく、特別な出来事、なのだ。ポヤでは、ジャン君(仮名)が来た、そのこと自体がイレギュラー、特別な出来事なのだ。住人達はいつもの通りの生活を送っているが、ジャン君との会話、約束、等でその生活パターンが阻害されているはずだ。それが、イレギュラーなのである。そう、ジャン君はイレギュラーなわけだから、ジャン君に対して生活感を感じる必要はない。ジャン君として暫く生活していけば自然と生活感を感じるようになるはずだ。それが、生活なのだから・・・
最後に、私は本当は続編は望まない。続編ではなく、「別のゲーム」として出せなかった物を出して欲しい。これはときメモ2にも言えることだが、続編という物は純粋に続編として作るように企画して作らないと、うまくいくことは少ない。というか、面白いことは少ない。たとえはトゥルーラブ。私はやったことはないが、友人曰く「システム同じ」なのだそうだ。これは続編には当てはまらないんだけど・・・ねぇ、アスキーさん。
そう言った感じで、2というのは最初より良くなっていることを期待しているわけだし、制作者の意図とユーザーの期待が一致するとは限らない。それに気付くメーカーが作れば続編はいいものができる。でも、今までそんなに良い続編のソフトは見たことが無い気もするが・・・



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