【殉難碑「母子像」の作者 分部順治氏について】
芸術家には、作品がすべてで、作品が自己のすべてをも語ると頑なに寡黙を押し通した人たちがいるが、
彫刻家・分部順治もその一人であつた。分部は、生涯で一冊だけ、それも晩年になって作品集を自費で出し
ているが、写真の撮影者の氏名も出版社名もないのであった。
これ以外に、白己の主張を語ったり、白己の芸術を述べたりという文章も皆無であった。
ただ、幸いにも彼の作品集には、巻末に、彼白身による年譜が、慎ましい活字で載せられていた。
したがって、伝記をまとめるとなると、その年譜をもとにして彼を熟知する人たちから聞き取る以外にない
わけであった。幸い夫人が娘夫婦と暮らしておられ、実弟の芳雄氏が浦和に、御健在なので、詳しく伺うこ
とができ、また、高崎在住の同期の方々から、交流の度合いに応じた貴重な談話を戴いて、何とかまとめる
ことができた。やはり夫人と実弟のお話は、身近で暮らしていただけに迫真のものであり、夫や兄に村する
懐かしさと同時に、身内を語る遠慮深さからのためらいが感じられ、不躾な質問が憚られ、つい聞きそびれ
てしまったものもあった。特に、戦中・戦後については苦しい生活を強いられ、それを打開した仕事が昭和
二十六年の『熊の平駅殉難慰霊の像』と昭和、二十七年の前橋駅前の『戦災復興記念像』であった。
それまで四十歳になるまで作品が売れなかったと彼自身が同期の友人に語っていた。夫人は、これらの仕事
について特に感慨深いものがおありのようで、その年月日までも明瞭に記憶なさっていた。
たまたま信越線横川、軽井沢間が廃止になり、熊の平殉難碑の存亡が気になっていたこともあり、探訪し
た。碓氷峠旧道七十六カーブから山上に旧熊の平駅の変電所が見えるのに線路は鉄条網で完全に囲われてい
て中に入ることができない。やむなく横川郵便局に戻り、局長に経路をお聞きしてようやく辿り着くことが
できた。立ち人れない場所ではない所へ移転すべきと考えての探訪であったが、真新しい花が供えられてい
た。改めて遺族の悲しみの深さを感じさせられ、この像は移せないのだと肝に銘じた次第であった。
このミロのビーナスの「姿態」で裸身の幼子を抱く慰霊像は、戦後の貧しい中で、若く豊満な夫人と愛しい
長男をモデルに制作したもののように感じられる。不躾に夫人に尋ねられなかった一つである。
文;分部順治伝執筆者武井民部氏
(高崎高校同窓会報第33号 百年史人物史編 翠巒の群像 より抜粋)