2000/6/16 老後と死に方

====警告:非常に重いテーマです!!不快に感じる人は読まないことをお勧めします=====

 話していて多くの人が、はき捨てるように言う言葉がある。「ああいう死に方したくないねえ」「あんなになっちゃおしまいだねえ。ああなってまで生きたくないね」「俺は太く短く生きるんだ」「ぽっくり死ぬつもり」

 これらの発言はやばい。戦慄してしまう。なぜなら、今回のテーマにあるように、人は「老後」と「死に方」は自らは選べないと私は思っているからである。その人の運命だか、宿命だかで、天からその人の老後、死に方は決められるように思う。避けようがないものだと思う。それは決してカッコいいものではない。

 誰でも若い間は、老後の人間がなんとか生きようとじたばたしているのを見ると、滑稽にみえる。また、悲惨な死に方をしている人をみると、よもや自分がそうなるとは思っていないようだ。「このしにぞこないが」「お迎えきてるぜ」てなノりである。でも、なぜ、自分がそうならないと思うの?と聞くと、全くその根拠はないようで、あくまで自分はああはならない「だろう」というだけである。まるで、その人の「どじ」でそういう老後になってしまった、死に方になってしまった、と思っているかのようである。

 病院にいく。すると、たんが出せなくなった入院中の老人たちを、看護婦が吸引処理を行なっている。これは、とてつもない痛みをともなうことは明らかである。口からチュ−ブをいれて、たんを吸引する。あまりの苦しさに老人たちは、抵抗する。手足をおさえつけて、無理やり口からいれる。だめなら、鼻から入れる。老人たちの悲鳴とともに吸引される。たんだけでなく、血液まで吸い取られている。それを、数時間おきに、看護婦は機械的に行なっていく。もう、やめてくれ、いっそ殺してくれと、耐えられずいう、でも、辞めてはくれないのだ。これは、どの入院病棟でも、ごく通常に行なわれていることだ。

 「俺は70になるまえに、ポックリしぬんだ」「そんな姿になってまでいきたくない」という人がいる。でも、老後はじわじわと、実にゆっくりとやってくるのだ。若さと老後の境界線はない。ふときがつくと老後になっている、というものなのだろう。「ああなりたくない」といっていた状態に自分が少しづつなっていく。

 病気にしても、じわじわ悪化する、最初、通院、入院、寝たきり状態、危篤状態と少しづつやってくる。だから、あ、もう俺のいやがっていた状態になったので、いさぎよく死のう、なんて思う暇は全くないのである。ふと気が付くと、ベッドの上でもう動けない体になっている、というものなのだろう。

 だから、最近、老後でゆっくり歩いている人間や、病院で寝たきりになっている人を見ると、自分がああなるのであろうと、よく感じることができるようになった。人ごとと思えなくなった。

 もし、本気でつらい老後を送っている人たちを指差し、「ああ、なりたくないねえ」なんて思っていると、自分が、まさにそのようになって、気がついたとき、とてつもない絶望感を感じるのではないかと思う。それは本当に深いものだろう。

 父はガンでなくなった。私はずーっと付きっきりだった。癌がいかに苦しいのかをイヤというほど思い知らされた。本当によくわかった。私は父の死に際して、恐くなった。自分がこういうようにいつかは死ぬ、というのは実感できなかった。でも、客観的に見れば、今死因は癌が大変多い。であるから、私も癌で同じような状態で死ぬ、というのは至極、ありえることなのだ。それを感じた瞬間、背筋が凍りついた。

 私はじっくり考えた末、「私もまずああやって死ぬだろう。もう覚悟しておこう」と思った。その瞬間、不思議に気が楽になった。父の看病をしている間、同じ病棟でどんどん人が死んでいく。ドラマでは首がかくっとして死ぬが、現実とはあまりに異なっている。死にたくないと表情、声、全身で表現する人たちから、「痛みの洪水」とともに死神が一気に命をひきちぎっていく、そんな感じだ。それを目の当たりにすると、「覚悟しておく」というのが精神の安定をはかる最良の方法だと感じた。

 「なんとか、自分だけはああなりたくない」と思うと、恐ろしい恐怖を感じた。そして、それは、「俺はああ死にたくないので、その対策をたてておこう」というものではないとよくわかったのだ。死に方だけは、カッコつけて、いい死に方を選ぶことはできない。少なくとも、ここ1年で私のみた人は、死に方を選ぶことはできなかった。「否応なしに」決められたシナリオでやってくるものなのだ。

 先の、看護婦にとっては、仕事の一つ、当人にとっては地獄の苦しみ。たんの吸引の描写は私の父のものだ。私も、死ぬ前に、たんを吸引されるだろう。みんなに手足をおさえられて。もう、私はその覚悟はできた。

 友人に上記の件を話したところ、「伊藤くん、そうではない。ねずみは死ぬ前まで、死ぬと思っていない。ヘタに人間は考えるから、死ぬのが恐くなるのだ」といわれた。でも、私は、そう思わない。老後、死ぬときの心の準備は人間であればできるだろうと思う。

 今の医学は、病気を治す単なる手段だけであり、老後、死に方についての考察は間違いなく、きわめて初歩の段階、あえていえば、幼稚である。相手が苦しもうが、なんだろうが、死ぬまでの期間を延長させるだけだ。それは癌で肉親が死ぬ様子を近くで見れば、誰でも思い知らされる。それに逆らえば、刑法でつかまるだけである。「女医」というTVドラマの1シーンは、同じように癌の人に最後まで接した人なら、実に感動的だ。くさいドラマ、ではないのである。

 みなさん、これは私の考えですが、老後で苦しんでいる人、悲惨な人、大変な死に方をしている人をみて、「うえー、あんなになりたくないねえ」といわないほうがいいと思う。

 あれは我々の将来の姿そのものでもあるのだ。