2001/5/31 責任者は誰?

 ハンセン氏病対策に関する国会の責任を追及した裁判の、控訴断念決定についてはニュースでみなさん、ご存知でしょう。最後は総理が控訴断念を決定しました。

 総理が控訴断念を決断する前から、政府は保証を行うことを明言していました。また、謝罪の意思も表明することを決めていました。ただ、政府は「国会の不作為の責任」(つまり、対策をたてることを、なまけてしていなかった、という責任)について、どうしても認めたくなかったといいます。どうもその点が控訴したがっていた理由のようです。

 なんじゃ、それはと思ってきいてみると、「この裁判結果を認めると、国会の活動内容について、司法の判断が入りだす。これはおかしいだろう」、という主張のようです。そういえば、憲法で三権分立が決まっており、司法が立法に介入できるのは、違憲立法審査権だけでした。なるほど、と思います。そう憲法にありますよね。一般の国会活動を裁く権利が裁判所にはないのです。

 でも、じゃあ、ハンセン氏病の患者の人権を踏みにじる法律を早く廃止しなかったのは、裁かれなくていいの?国会の責任ってなんなの?と、言いたくなります。誰の責任なの?誰も責任をとらないというのは変な気持ちがしませんか?でも、憲法には、規定がないのです。国会のミスであったことは明らかなのに誰も責任をとらなくてもいいし、誰も責任を追求しないです。

 あれだけの重大問題が発生したのに。責任者は誰なのでしょう。また誰かが国会を裁くはずなのです。憲法はどう考えているのでしょう。

 すでに賢明な読者はお気づきでしょう。国会の不作為を監視するのは、実は我々国民なのです。同時に国会は我々国民が選挙で選んだ代表なのです。国会を縛るのは、国民以外ないのです。そして国会がおかしなことをやればそれは国民がおかしなことをやったことになるのです。なぜなら、国民は選挙によって、おかしいと思う活動を行う代議士を排除し、正しい判断をすると思う議員を選ぶ、つまり裁くことができるからです。

 国会の不作為はその議員を選んだ国民の責任ということになります。つまり、ハンセン氏病患者の人権を踏みにじる法律をはやく廃止しなかったのは、政治を監視していなかった国民の共同責任なのです。我々の無関心がその裁かれる当事者なのです。それが日本国憲法の精神のはずです。それを我々は知る必要があります。責任者は我々なのです。また裁くのも我々ということになります。本来は我々が反省するべきことなのに、そうは誰も思っていないところが怖いです。