2000/11/27 ディベート

 ディベートのことはよく誤解されている。討論のときに、いかに相手を言い負かすか、自分が正しく見えるようにもっていくか、このような言葉の策略をディベート技術だと思っている方が多いようである。こういうのは絶対にディベートとはいわない。単なる愚かな話術である。

 この愚かな話術が大流行である。国会議員の討論も、企業内での討論でも、TVでの討論でも、ほとんどがこれである。自分の立場をがなりたて、相手のあげあしを取り、いかに自分勝ったかのような印象を聴衆に与えるかを競い合っている。

 近所の一般市民のけんかで、こういった話をしてもいいのだが、賢人扱いされている責任ある人間達が、これを自慢げにきそいあっている。

 ディベートというのは、相手と討論する中で、議論を深めあい、理解を促進し、ベストの解決策、合意を作り上げていく共同作業のことをいうのである。非常に高度で、体系的である。目的がいいまかすことではないので、議論していくなかで、立場を逆にしてみる、なんてことも行う。なぜ、そういうことを主張しているのか、その根拠はなんなのか、それは正しいのか、では、お互いの主張は本当に衝突するものなのか、衝突するものでないのなら、その両者を納得させる選択肢はないのか...といった経過をたどる。ディベートでの結論では、多くが「実は2人の言っている主張は衝突するものではなく、両者の主張をいずれも満たす選択肢があった」というのがほとんどなのである。

 まとめてみると

1.誤解されているディベート

 ・目的は相手をいいまかし、周りの人間に自分が正しいと思わせることである。
 ・手段としては、「相手が話しだしたら、自分の反論をかぶせるようにして聞こえないようにする。」「相手の揚げ足をとる」「相手の疑問・反論にはできるだけ無視し、自分の主張することをできるだけ、長時間はなしつづける」「身振り。顔つき、口調などを重視する」
 ・その達人は、国会議員、某宗教団体の人間である。
 ・終わったときには、お互い実に不愉快な感情となる。
 ・勝った、負けたが結論となる。見ているほうも、「彼のほうがただしそうだ」が主な視点となる。

2.本来のディベート

 。目的は相手とともに、問題点の実体を掘り下げていき、相手を理解し、お互いの最善の策を作り上げることである。
 ・手段としては、お互いの主張の掘り下げ、お互いの理解、事実の提示、解決案の模索といったことになる。
 ・終わったときには、なにかを作り上げた実感でお互い実に爽快な気分となる。
 ・できあがった問題解決の選択肢が結論である。それによって、2人が勝者になる。見ている人間も、その結論の評価に重点がおかれる。

 恐ろしいのは、政治家にも、評論家にも、企業の中にも、ディベートでなく。エセディベートの達人が実におおいことである。今回のことを頭にいれて、TVでの討論、企業での会議での討論をみてほしい。ほんとにエセ会議・討論はおおいのに驚くはずだ。

 みるほうも。「内容はよくわからなかったが、言い方の雰囲気からして、なんか、Aのほうが言い負かされてたようだなあ。だからBが正しい」なんて、おめでたい評価をしないようにしたいものだ。