贈り物



written by ぽっこ  




 目が覚めたら既に朝だった。時計に目をやると、いつもの時間だった。
 すぐに体を起こし、てきぱきと布団を畳み服を着換える。洗顔を済まし、屋敷の車庫に向かった。それは数十年来変わらぬ、いつもの彼の日課だ。
 壁に付けられた小さな扉を開き、中にあるキーシリンダーに鍵を穿めこみキーを捻る。静かな唸りをあげてガレージの自動シャッターが開いていった。中には黒塗りのストレッチリムジンが静かに彼を待っていた。その黒い体に向けて、彼はホースから水を弾き出し、汚れを落としていく。そしてボディに顔が映るほど磨きを入れる。これも数十年来変わらぬ彼の日課だった。
 そのリムジンは、彼にとって仕事道具であり、また数十年来の日課が築き上げた誇りでもあった。このリムジンを一度も路上で立ち往生させたことが無かった彼は、このリムジン同様に、雇い主にとって無くてはならぬ必要な存在となっていた。
 彼の仕事、それは綾崎家の運転手であった。


 「中島さん、おはようございます」
 車庫で毛ばたきを掛けてた彼に、明るい声が飛び込んできた。
 「おはようございます。お嬢様」
 朗らかに朝の挨拶をしてきた少女に、彼も挨拶を返した。この綾崎家の一人娘である若菜であった。
 若菜は躾の行き届いた礼儀正しい娘であった。別段今まで暗いというわけでは無かったが、どちらかというと控えめで慎み深いイメージが強かったのだが、ここ最近その折り目正しさに、目に見えるほどの明るさや朗らかさが加わった。
 その明るさは若菜の品や淑やかさやを損なうことなく、むしろ彼女の魅力を引き立たせてさえいて、自分の娘の如く慈しんできた中島でさえ、時として眩しさを覚えるほどであった。
 ――あの頃のようだな。
 にこやかに自分を見上げる若菜に笑顔を返しながら、中島は独りごちた。
 かれこれ6年も前のことになる。まだ小学生だった若菜の前に、若菜と同い年の一人の少年が現れた。それは若菜に初めて家の教えに背いた小さな冒険心を生み出させ、初めて若菜に恋心を芽生えさせ、そして初めて若菜に別離の辛さや悲しさを教えた、短くも大切な時間と出来事だった。
 それらの出来事は、同時に中島にとっても初めて雇い主である綾崎老から厳しく叱責を受ける結果となった。彼の長い綾崎家での務めの中での唯一の汚点とも言えたが、綾崎老への仕事の落ち度は、必ずしも若菜に対してのそれとイコールなのでは無いと、若菜の成長過程を見てきた中島は後々に悟った。
 「どうかなさったのですか?」
 怪訝な表情で若菜が訊いてきた。どうやら知らず知らずのうちに、思い出し笑いでもしていたらしい。
 「いえ、何でもありません。ところで、お嬢様…」
 少し笑みを残したまま、それでも真剣な目で中島は若菜に話し掛けた。
 「節は曲げてはなりません。ご自分で正しいと思ったことは、最後まで正しいと信じてくださいね」
 「???」
 「それではそろそろ参りましょうか」
 「は、はい……」
 まだ若菜は訳が分からないといった表情でいたが、後部座席の扉を開いてにこやかに、そして促すように乗車を待つ中島を見ると、仕方なくリムジンに乗り込んだ。


 リアシートに腰を下ろした若菜が身に纏う、ブレザーでもなく勿論詰襟でもない少し変わった上着と群青がかった紺色のスカートという組み合わせの制服は、彼女が通う私立紫雲女子高校のものだった。毎朝、その紫雲高校まで若菜を送り迎えするのも、中島の日課だった。
 「今日は藤間先生のところで良かったでしょうか?」
 「木曜ですから…そうですね」
 リアシートから声を掛けた若菜に、中島も軽く応じた。週に何日か放課後に若菜は稽古事に通っているのだが、こうして毎朝その日の予定を若菜と中島は確認し合った。
 実のところ彼女の日課に関しては、中島もそして若菜自身も確かめる必要も無いくらい長く続いていて身に付いている事柄なのだが、放課後の稽古事の話しからお互いに会話を始めることも、また日課となっていた。
 「先週は扇子を持ち返すところに優雅さが足りないと、先生に叱られてしまいました」
 若菜は放課後に行く予定になっている、郊外の山科に住む日本舞踊の師匠の話しを始めた。家に帰って今日あった出来事を話す子供のように若菜は語り、それを頷きながら聞く親のように中島も聞いていた。
 本来、後部座席での会話が運転手に聞こえないよう、運転席と後部座席との間に仕切りを入れているものをリムジンと呼ぶ。だが若菜は直接中島と話をするのを好み、仕切りがあるのを嫌ったので、リムジンは通学中の短い時間だけは仕切りを外し、普通のセダンとなっていた。
 朝と夕方のひとときだけセダンに変身するその英国製のリムジンは、マイクを通さず仕切りを外しても十分に会話ができるほど、素晴らしいまでに静かな車だった。黙っていれば時計の針の音しかしないという伝説は嘘では無かった。
 こうして、中島とこのリムジンのお蔭で、楽しくも穏やかな毎朝を若菜は過ごすことが出来るのであった。


 その日、綾崎老は知人の歌舞伎役者に会いに東京へ出掛けており、中島の仕事は若菜の送り迎えと、京都駅まで若菜と綾崎老を出迎えに赴くだけであった。
 若菜を送り出して時間の空いた中島は、午前と午後の時間を掛け車の整備を行った。綾崎家のリムジンは車検と法定点検以外では一度も工場に出したことは無い。中島の入念なメンテナンスは出るべき全ての故障を予め防いでいた。手を掛ければ掛けただけ、車は応えるものだった。
 エンジンルームまで磨き上げたが、それでも時間が余ったため、少し早いが中島は紫雲高校へ向かうことにした。


 京都市内とは言え、さすがに私立校だけあり、紫雲学校の敷地は広い。リムジンの一台如きで特に迷惑になることも無かった。
 放課後までは15分もあるだろうか。中島はリムジンを正面玄関の車寄せへは寄せず、校門近くの駐車スペースへ滑り込ませた。
 校門をくぐった時、校門の側でうろうろする一人の男を見掛けた。その姿は校門に辿りつく前から認めていたのだが、門の所まで来て初めてその男は若い少年であることが分かった。
 ――真っ昼間からいい若いのが女子高の前で屯ろするとは…
 少し苦々しく思いながらパーキングブレーキを引いたその時、少し落ち着かなく校門の中を探っているような男の表情を思い出して、頭の中で閃くものがあった。
 ――もしかして、今のは……
 エンジンキーをoffにし、リムジンから降りた中島は、校門を背中にして俯いている男、いや少年に向かって歩き出した。


 少年の顔に彼は覚えがあった。
 体つきこそ既に青年のそれであったが、表情に小学生の時の容貌が残されていた。間違い無く、自分の前から若菜の手を引いて連れ去ったあの少年に他ならなかった。
 「失礼ですが、貴方はもしかして……」
 「えっ?」
 ビクッと振りかえった少年は、リムジンの傍らで控えている彼の姿を認め、少し顔を紅潮させ、しどろもどろになりながら喋りだした。
 「あ、あの、決して怪しいものではありません。ちょ、ちょっと人を待っているだけで…」
 「……若菜お嬢様をですか?」
 「えぇ?!」
 図星だったと見え、更に少年は慌てた。
 「私ですよ。覚えてらっしゃいませんか? 小学生の頃、私が若菜お嬢様をお迎えに上がった時に、お嬢様の手を引いて連れていかれたことがあったでしょう」
 微笑みながら彼は少年に問い掛けた。少年はまじまじと彼の顔を眺めていたが、彼の言った過去のことを思い出したのか、突然今まで以上に一際慌てて頭を下げながら、謝りだした。
 「ご、ごめんなさい。あの時はご迷惑をお掛けしました。本当にごめんなさい。本当に…」
 「あ、いやいや、気にしないで下さい。もう昔のことですから…」
 彼は苦笑しながら、諭すように少年の謝罪を遮った。確かにあの時は、自分の雇い主であり若菜の祖父でもある綾崎老から相当の叱責を受け、多少なりとも逆恨みに思ったのも事実だ。少年が恐縮するのも無理ない。
 だがあの日から若菜が明るく積極的に変わったのも、また事実だった。彼にはそれが嬉しくあった。そして最近の若菜は、その頃を思い出させる快活さを持っていた。
 ――またこの少年が来たから、なのか?
 黙って考え込む中島を見て、少年はまた恐縮した様子になっていた。
 「それで、今日はどうなさったんですか?」
 緊張し続けている少年を慮ってか、優しく静かに中島は訊いた。
 「あ、ええっと、今日は学校がテスト休みだったんですけど、急にバイト先も休みになったので、つい思い立って…」
 自分と若菜との間に立ちはだかるかも知れない存在である中島の、その穏やかな口調に連られるように、少し遠慮勝ちに答えた。
 ――以前と全然変わってないなぁ…
 若菜に会いにくる為だけに即断で京都まで日帰りで来るという、少々突飛な少年の行動は、大人である自分の前からいきなり若菜を連れ去るという、幼い頃の行動と重なって見えた。そして、若菜が近頃の明るく朗らかになった理由も、朧気に分かってきた。
 しかし、今日の若菜は放課後に日本舞踊の稽古があり、のみならずその後に京都駅に綾崎老を一緒に迎えに行かねばならないという難事が残っていた。
 「しかし、今日は若菜お嬢様は……」
 そこまで言って、後の言葉を中島は飲み込んだ。
 ――弱ったな……
 答えは分かりきっていたのだが、やはり中島は悩んだ。自分の仕事には誇り持っている。しかしどこに出しても恥ずかしくない『若菜』という存在は、中島にとってそれ以上の誇りでもあった。
 丁度その時、終業を知らせる鐘が鳴った。
 ――この少年が絡むと、またこうなるんだよなぁ…
 溜息を一つ吐いた後、意を決したように中島は少年に向き直り、若菜が後少ししたら出てくることを告げ、おもむろにリムジンのボンネットを開けた。



 エンジンルームに上半身を突っ込んでいる中島の背中に、若菜の声が掛かった。終業の鐘の音が鳴って、僅か数分のことだった。
 「中島さん、どうなさったのですか?」
 「あ、お嬢様…」
 「まさか…車が故障でもしたのですか?」
 信じられぬ、という顔つきで若菜は問い掛けてきた。無理もない。このリムジンのボンネットが開いているのを、若菜も初めて見るからだ。
 中島は運転席に廻り、キーを捻ってもみたが、エンジンは掛かることなく、セルモーターすら廻らなかった。
 「……申し訳ありません」
 およそ普段の中島らしからぬ不明瞭な答え方は、若菜に本当にリムジンが動かないことを知らせた。
 「珍しいこともありますのね」
 そう言いながら、まじまじと初めて見るエンジンルームの中を若菜は覗いていた。
 「それよりもっと珍しいことがありますよ」
 間髪を入れずに中島は返し、校門の方を指差した。
 「え? ……あっ!」
 指を差された方向を見て、若菜は驚きの声を上げた。
 「お、お久しぶり」
 ぎこちなく、少年は笑った。
 「どうして貴方がこちらに……」
 当然な若菜の疑問に、少年は先ほど中島に答えた内容を語った。
 右手を頬に当てて少し羞じらった若菜は、それでも残念そうに視線を落としながら少年に答えた。
 「でも今日は……郊外までお稽古事が…」
 「あの、お嬢様」
 若菜の断りの言葉を遮るように、中島が間に割って入った。
 「は、はい」
 コホンと一つ咳をし、中島は言葉を続けた。
 「大変申し訳ありませんが、お車が故障してしまい、山科までお送り申し上げることができなくなってしまいました」
 中島はそこまで一気に言い、深々と頭を下げた。
 「え? そういえば……そうしたら私はどうすれば……」
 「お屋敷に戻ればもう一台リムジンがございます。大旦那様のお迎えはそちらでできますので、大変申し上げにくいのですが、お屋敷まで歩いてお戻り頂けませんでしょうか? 山科の日舞のお師匠様には私から行けない旨、申し上げておきますので…」
 そう若菜に言い、今度は少年に顔を向けて言った。
 「お見苦しい所をお見せして申し訳ありません。お嬢様のご友人ということで甘えてしまい大変恐縮なのですが、お嬢様をお屋敷までお送り頂けませんでしょうか」
 「えっ?」
 同時に二つの声が重なった。
 驚き、目を合わせる若菜と少年。しかし、すぐに驚きの表情は歓喜のそれとなった。
 「わ、分かりました。必ず家まで送りますので……」
 頼まれた少年の方が、まるでお礼を言うかの如く中島に頭を下げながら答えた。
 「必ずお屋敷までお願い致します。それと…」
 一端言葉を区切り、改めて背筋を伸ばすように姿勢を正すと、中島を言葉を続けた。
 「……お嬢様のこと、くれぐれもお願い致します」
 「……」
 「よろしいですか?」
 「は、はいッ」
 連られて少年も直立不動の姿勢になりながら返事をした。
 その時の中島は、後に少年に『この時の中島さん、まるで若菜のお爺さんのような目つきだったよ』と言わさしめる程、真剣な眼差しだったからだ。


 「……行こっか?」
 晴れやかな顔で、少年は若菜に問い掛けた。
 「はい」
 満面の笑みを浮かべ、若菜も答えた。
 ――やはりこの少年だったか……
 明るく朗らかな若菜を、目を細めながら中島は眺めた。
 そして、リムジンの方へ振り返りながら独り言を呟いた。
 「こりゃ3時間くらいは掛かりそうだな……」
 顔はリムジンの方へ向けられているが、まるで二人に向けられているかのような言葉だった。
 暫くリムジンを眺めていた中島は、改めて二人に向き直った。
 「よろしくお願い致します」
 もう一度少年に、今度は笑顔で中島はお願いした。


 空は茜色に染まりつつあった。
 遠ざかっていく長く伸びた二人の影を、中島はリムジンの傍らで見守っていた。しっかりと手を取り合った切り絵のようなその二つの影は、中島に6年前に戻ったような錯覚を起こさせた。
 ――さて、6年ぶりに大目玉を喰らうとするかな……
 6年ぶりに中島の誇りがまた一つ、傷つくことになった。しかし、彼のもう一つの誇りが更に輝きを増すであろうことに、彼は満足していた。
 小さなレンチを片付けると、中島は運転席に腰掛けてキーを捻り、セルモーターを回した。
 ――3時間か……どこで時間潰すかな……
 バッテリーコードを繋いだだけのリムジンは何事も無かったようにエンジンが掛かり、そして夕闇の京都の街へ消えて行った。



(了)





【後書きにかえて】
若菜SSのつもりが、中島SSになってしまった…^^;
クルマのストーリーですが、やはり若菜には運転させられませんでしたね(苦笑)
運転手の中島さんはきっと主人公の味方だと、常々思っていたところから生まれたお話です。

■著 作 : ぽっこ
■禁無断転載
■表示形式はmistのサイトヲ・カヅキさんのフォームを参考にさせて頂きました。
■作者であるぽっこへのご意見、ご感想等はこちらまでお願い致します

 



“sentimental graffiti”はNECインターチャネル/マーカス/サイベル/コミックスの著作物です。.

★うーん、中島さんシブイですねぇ。若菜もこういった「理解あるいい人」に囲まれて幸せを育んできたのでしょう。
・・・・・・「センチ2」の設定はんたーい!!(笑)