ゴトゴトと走る古びたクルマ。
助手席には若菜が、今日のドライブのお弁当である手作りのサンドイッチが山のように入ったバスケットを持ちながら座っている。
そして運転席にはあの人が、もうすっかり慣れた手つきでこの古いクルマを操作をしている姿がある。
若菜は、そんな彼の姿を見ながらあの日のことを思い出すのである。
遠くへ・・・
ある日、母から一枚の紙切れをもらったのがこの騒動の始まりだった。「えっ、お母様、これは・・・。」
驚く若菜。それもそのはず。
常日頃からお願いしていたにも関わらず、叶いそうにもなかった夢。それは「自動車の運転免許を取得する」というものだった。
無論、綾崎家には送迎用のリムジンが唸るほどあり、若菜もそれで子供の頃から送り迎えをしてもらってはいた。
しかし、、「あの人」とのこととなると話は別だ。
運転手付きのリムジンなんかでは、気軽にあの人と会うことはおろか、デートになどとてもではないが赴く気にならない。
なんだか終始自分たちが監視され、また子供扱いされているような気分になるからだ。
それにあの人も、その辺りをちょっと歩きたいという時に、まるでお供のように黒塗りの車などを待たせていては気兼ねをしてしまうと以前言っていた。
「私が免許を持てば、少なくとも私が会いたい時には会いにゆける。」
そう考え、若菜はその旨を両親にうち明けた。
結果は、あっけないほど早くやってきた。母親が懐から取り出したのは、「合宿制自動車免許取得申込書」であった。
見れば、「最短で18日」なんて見出しが踊っている。
丁度、うるさい翁もこの時期に合わせたかのように家を空けることになっている。若菜は胸の高揚感を隠せず、母にただ「ありがとうございます・・・。」と言うのが精一杯だった。
「その代わり。」母は続けた。
「どうしても無理そうな時は、合宿所から電話をちょうだいね。なんとかするから。」意味ありげに微笑んだ母の顔にチラっといたずらっぽいものが浮かんだような気がするが、若菜にとってはそんな些細なことはどうでも良かった。早速申込書に必要事項を書き込み、平行して電話で予約を申し入れる。
なんだか、電話の向こうにまるで夢のような世界が自分を待っていてくれるような気さえする。
出発は明後日の早朝。あの人の驚いた顔が見たくて、若菜は電話で「しばらく連絡が取れなくなります。」とだけ伝えた。教習所に入所する前の日の晩、興奮気味でなかなか寝付けなかったことをハッキリと覚えている・・・。
「では早速ですが、運転に慣れていただくためにも、初日ではありますがハンドルを握ってもらいましょうか。」教官が信じられないことを言う。
まだ学科の1時限目も受けていないというこの日に、いきなりの実地指導である。心の準備はおろか、「実際に運転できるのはもっと先。」だと信じていた若菜は面食らった。
「あ、あの・・・。」
「大丈夫ですよ。もちろん私も助手席にいますし、危ないと思ったときは助手席から踏めるブレーキもありますから。」教官はにこやかに言ってのける。ちょっぴり日焼けしたその年老いた穏和な顔に、若菜は不安な心をいくらか和らげることができた。
「は、はあ・・・。では。」
恐る恐る運転席に座り、まずシートポジションを調整してからシートベルトを締めるよう言われ、次に各ミラーを見やすいようにあわせることを教えられた。
「ではまず、ハンドルの右奥にあるキースイッチを捻って、エンジンをかけて下さい。」
心臓が早鐘のように鳴り、頭の中が真っ白になる。
自分の手が、なんだか自分の意志を無視して勝手に動いているかのようだ。「えいっ。」
ぶるるんっ。
エンジンは、これまたあっけないほどに簡単にかかってくれた。
「では次です。ブレーキペダルを、・・・そう、そこの足下の一番幅広のペダルを踏んで下さい。」
ぐっ。
「そうしたらシフトレバーを、そう、これですね、そのボタンを押しながら"D"のところに持ってきてみましょう。」
かちっ、ぐぐっ。
「はい、じゃあいいですか? サイドブレーキを、やはりボタンを押して解除しながら下げて下さい。」
かち、かたん。
「いいですね、ではいよいよブレーキペダルから右足を離しますよ。」
ぶるぶるぶるぶるん。
低回転のため、ちょっとがくがくしたカンジで教習車はゆっくりと前に進み出した。
動いた。
動いてしまった。「はい、では視線を前方の、あの赤いポールに集中してください。」
のろのろとクリープ前進をしながら教習車は更に進む。もうなにがなんだか。
「さぁいよいよアクセルですよ。さっき踏んでい・・・」
・・・しかし、教官の言葉はその先に続かなかった。
焦った若菜が勢いよくアクセルペダルを蹴飛ばしたせいで、FFのその教習車は前輪を激しくホイールスピンをさせながら、ぐーんと加速してしまったからだ。「きゃああああああああああああああああああああああっ!!」
「うわああああああああああああああああああああああっ?!」ごーんんんんんん・・・。ぷしゅーっ。
教官がブレーキを踏む間もなく、その教習車は夜間教習用の電灯のポールに思いっきりぶつかり、・・・結果、盛大に白煙を吹き上げてお亡くなりになってしまったのである。
これが若菜の記念すべき教習所生活の、第1日目であった・・・。
「ぐすっ、お母様・・・。」着いたその日に教官を一人病院送りにし、他の生徒からは「クラッシャー」の異名を与えられた若菜は、その後も幾日か頑張ってはみたものの、毎日潰れてゆく教習車達の無惨な姿に耐えきれず、遂に母親に電話を入れた。
「私、どうしたらよいのでしょう?」
その泣き声を聞いた母親が、電話の向こうでころころと笑っていた。
「そんなコトでどうなさるの、若菜さん。これはあなたが望んで行動した結果なのですよ?」
「はい。それは分かっていますが・・・。」
若菜にも、実は薄々分かっていたのだ。自分は、実際は自動車の運転などという器用なマネなどできないのでは、と。
2〜3秒の沈黙の後、母は若菜に柔らかくこう告げた。
「では教習所の方へは明日、私の方からお断りとお詫びの電話をいたします。若菜さんは明日、そのままその教習所でお待ち下さい。とびっきりのお迎えをそちらに回しますから。」
母はなにもかも知っていたのだ。でなければこんなにとんとんと話を進められる訳がない。
若菜は今更ながら、こんな自分のために、決して少なくはない教習費を用立ててくれた母に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。それにしても、「とびっきりのお迎え」とは・・・?
次の日、教習所の事務員から退所の手続きをするよう言われ、若菜は妙に寂しいような、反面、しかしこれで良いのだというむしろ清々しいような気分で手続きを終えた。「綾崎様のお迎えは、予定ですとお昼前頃には到着だと伺っております。見えられましたら館内放送でお呼びいたしますので、それまでどうぞ見学でもなさっていてください。」
事務の女性は淡々と告げる。そしてちゃっかりと「お友達をご紹介下さい。」という封筒まで若菜に手渡した。
「はぁ。」
仕方なく、若菜は建物の二階のラウンジから他の生徒の運転ぶりを見ていた。
S字で曲がりきれずに脱輪しそうな高校生風の人。
坂道発進でゆうに1mは下がってしまい、教官に怒られている年かさの女の人。
すいすいと路上教習から帰ってきて、原簿に教官のハンコをもらっている茶髪の若い男の人。みなさん、がんばって下さいまし・・・。
と、そのとき。
ぴんぽんぱんぽーん。
「お呼び出しをいたします。綾崎様、綾崎若菜様。お迎えの方がお見えになりました。正面玄関までお越し下さい。」「はぁ。」
これで何度目かのため息をついて、若菜はラウンジを後にした・・・。
「大丈夫なの、若菜?!」・・・一瞬、自分の目の前に立っている意外な人物に驚いてしまい、若菜は立ちすくんでしまった。・・・あの人だった。
「えっ、・・・ど、どうしてあなたが・・・。」
そう。それは母からの素敵な贈り物。正に「とびっきりのお迎え」だった。
「昨日の夜のウチに若菜のお母さんから電話をもらったんだよ。若菜が教習所で大変なことになっているから、是非とも車で迎えに行ってあげてくれって。」
「え、車?」
若菜は、その若い男性・・・先日、ようやっと想いの叶った彼との再会もさることながら、その後ろにチラと見え隠れしている空色の自動車に目を奪われた。
ちょっと古風な、丸みを帯びたデザイン。いや、実際これはかなり年代物の車なのだろうか。
しかし、どこかで見たようなデザインの不思議な印象のその車は・・・。「あ、そう言えばまだ言ってなかったっけね。この間やっと届いたんだ。プジョーっていうメーカーの『403カブリオレ』って言うんだ。」
"PEUGEOT" 英語のスペルではないのだろうか? 若菜は最初、そのリアに貼り付いているロゴが読めなかった。
若菜はあの人が免許をすでに取っていたことを知らなかった。それどころか車まで買っていたなんて・・・。
それよりどうして母はそのことを知っていたのだろうか?「実はね。」
若菜が教習所へ旅立つ一週間ほど前、彼は綾崎家に電話をした。若菜の部屋の直通電話にかけたのだが、たまたまその時若菜は外出中で、部屋の前を通りかかった若菜の母が電話を受けたのだそうだ。
「最初はびっくりしたよ。僕は若菜に免許が取れたことを報告して、車も予約しちゃったことを伝えようと思っていたのに、お母さんから『今にきっとこちらから急な用事でご連絡することになりますから、それまではどうか若菜に車の話をしないでくれ』って言われてね。」
・・・母の、あの意味ありげな微笑みはこのことだったのだ。
「さ、荷物を。」
若菜の無事な様子を確認すると、彼は早速自慢の愛車に荷物を積み始めた。
「あの。」
「ん、なに、若菜。」振り向きもせずに荷物を積む彼。
「私、この車を初めて見るような気がしないのは何故なんでしょうか?」彼はやっとこちらを向いて、にやっと笑ってこう言った。
「知らない訳ないよ。こないだ一緒に見に行った『刑事コロンボ』の映画の中で、コロンボ警部が乗ってたのがこの車だよ。」
そう言えば・・・。
助手席から顔を出す可愛い犬が印象的だったあの映画。そして、かのコロンボ警部のヨレヨレのコート姿までもが鮮やかによみがえってきた。
と、同時に、コロンボ警部が時々口にする、あの有名なセリフも・・・。「確かに映画と同じで見てくれは古いけどね、これだって当時はれっきとしたスポーツカーだったんだよ。どう、思い出した?」
にっこり笑ったあの人の屈託のない笑顔。「ええ、思い出しましたわ。」
その笑顔がちょっとだけしゃくだったので、若菜もちょっぴりだけ反撃を試みた。「私が一番印象に残っているのは、『ウチのカミさんがね』というセリフだけですけれど?」
空色のオープンカーが走り出した。
突き抜けるような青空の下、決して画面には出てこないと言われる警部の奥様の気持ちが、今の若菜には十分すぎるほどよく分かる。
古い古い車でのドライブの最中、若菜とあの人の会話が終始はにかみがちだったのは言うまでもない・・・。
Fin.
(あとがきのようなもの)
・・・。
・・・・・・。
・・・・・・・・・ぐわわーっ、はっ、歯が浮くっ、背中がかゆいーっ(ごろごろごろごろ・・・)サイトヲ・カヅキさんのHPのBBSでの「お題」<<(??)にのっとってボンヤリ構想を練っていたら、ものの2時間で完成してしまいました(笑)。
趣味炸裂ネタで申し訳ありません。m(_ _)mそしてみなさん。「もっとプジョーに乗りましょう!!」(^^)。
“sentimental graffiti”はNECインターチャネル/マーカス/サイベル/コミックスの著作物です。.