夢を見ていた。

 じっと耳を澄ませば、星達が瞬くあの宝石のような音すら聞こえそうな冬の夜、僕は晶と二人で航海途上の大型客船の上に居た。デッキの手すりに体を預け、他愛のない話に興じていると、軽いショックと共に突然鈍い音が辺りに響いた。

 程なく、船は傾き始める。
 怒号と悲鳴。

 僕は晶の手を取ると、救命ボートのある場所まで走った。

 しかしようやく見つけたボートには既に殆どの客が乗り込んでおり、しかも余裕はあと一名分しかない。
 僕と一緒に残ると騒ぎ始めた晶を叱りつけ、・・・そして驚いた表情で僕を見つめる晶に無言でキスをすると、僕はそのままボートの中の人達に晶を無理矢理にその中へと引き入れてもらった。

 自分にもうまく説明できそうにない、何かどす黒い感情に心を蝕まれながら、僕は晶の乗ったボートが遠ざかるのを見ながらゆっくりと海へ沈んでゆく。
 膝下までやってきた海水は確かに冷たかったが、僕にとっては不思議なほどに優しかった。
 すっかり遠くなったボートの方角から、僕の名前を呼ぶ晶の絶叫に似た声が聞こえる。

 僕は四肢の力を抜き、肺の中の空気をゆっくりと吐き出した。
 段々躰が冷たくなってゆく。
 感覚が無くなる。

 もう、苦しさも感じない。
 痛みもない。
 寂しくもない・・・・・・。

 僕は膝を抱え込んだままの姿勢で、海中へと深く深く没していった。












"Tonight,tonight,tonight."












 夢を見ていた。

 えみるの発案で、僕たちはちょっとしたオカルトゲームをやってみることになった。

 既に廃れて久しい小学校のくすんだ色をした教室の中で、僕たち四人はそれぞれが教室の隅にしゃがみ込んで目隠しをする。そう、正しくは『ローエンシュタットの回廊』と呼ばれる実験だ。

 まず、1番手のえみるが合図と共に立ち上がる。
 ただでさえ薄暗い教室の中で目隠しをしているので、えみるは壁に右手を添えてゆっくりと次の人物が居る隅へと向かう。
 そこでえみるは、次の人物・・・美由紀・・・の肩をトントンと叩く。

 びくっ、と体を震わせて美由紀が立ち上がる。えみるは入れ替わりに、今まで美由紀が居た場所にしゃがみ込む。えみると同じくひどく時間を掛けて美由紀は壁伝いに歩き、やがて目的の場所へとたどり着くと、今度は3人目の肩を叩く。3人目は若菜だった。

 「ギシ、ギシ」と、古びた木造校舎の床板が立てる音が、僕の神経を逆撫でる。
 そしてようやく若菜は四人目・・・つまり僕の肩を叩くことに成功した。

 結論から言えば、この遊びはここまでで終了する。「回廊」と言うからにはこの四人で教室をぐるぐると回らなくてはならないのだが、・・・それは「不可能」なのである。考えてみるといい。僕が次に肩を叩くのは先ほどスタート地点にいたえみるということになるのだが、当のえみるは美由紀が最初に居た場所へ移動して座っているはずである。つまり、このゲームは「5人いないと成立しない」のだ。

 しかし、・・・僕は若菜に肩を叩かれると半ば怒ったような諦めたような気持ちで立ち上がった。
 僕にはすっかり解っていたのだ。

 僕は右手を壁に当てたままずんずんと進む。そして、本来誰も居ないはずの場所まで来るとひとつ息を大きく吸い込んでから、意を決して「彼女」の肩を叩く。

 トントン。

 ・・・「彼女」は立ち上がったようだった。今はその息づかいが僕の少し下で聞こえる。
 僕は震える手で自分の目隠しを外した。

 「彼女」は何も言わず、僕に向かってゆっくりと顔を上げた。
 「彼女」の顔は窓からの微かな光が逆光となっていて表情などはまるで見えなかったが、しかし確かに泣いているようだった。僕は「彼女」の両肩にそっと手を置いた。

 そう。
 僕は「彼女」を知っている。否、「知っていた」と言うべきか。

 「ゴメン。」とだけ、僕は言った。その言葉が妙に周囲に響いた。

 「彼女」はそのまま泣き崩れた。


 昼過ぎ。

 高松空港に降り立った僕を、ゲートの向こうから真奈美が笑顔で迎えてくれた。

「今日はこちらに泊まっていってくれるんですよね?」
 心から嬉しくてたまらないと言った風情で、真奈美は僕を下から覗き込むようにしてたずねる。

「あ、うん。」
 僕は、自分でも判るほどにひどく素っ気ない態度で返事をしてしまった。

「あ。」
 真奈美はちょっとだけシュンとしてしまった。「ご、ゴメンナサイ・・・。」

 僕はそんな自分に一瞬心の中で罵倒の言葉を浴びせ、すかさずフォローを入れる。
「ご、ごめん、真奈美。そんなつもりじゃなくて、その・・・。飛行機って何回乗っても慣れなくて、疲れちゃって・・・。」

「・・・くすっ。」
 真奈美はくるっと表情を変えると、「じゃあ、お昼のお食事はアナタのおごりですね。」と言って楽しそうに笑った。なんと言うか、眩しくて直視できない笑顔だった。




 ここへ来るといつも立ち寄る喫茶店兼簡易レストランで、僕たちは遅めの昼食を摂った。
 食事をしながら僕と真奈美はお互いの近況なんかを話し合い、・・・ひとしきり話のネタが尽きた頃に、真奈美がおずおずと口を開いた。

「それでその、・・・まだ、・・・ダメなんですよね。」そう言う真奈美は、さきほどとは打って変わって別人のようだ。

「うん。・・・悪いとは思ってる、その、・・・待たせちゃってる真奈美には。」
「いいえ。悪いのは私の方だから・・・。あんな手紙なんかを書いた、・・・私の・・・。」

 それきり、真奈美は口をつぐんで、下を向いてしまった。僕の頭の中で、あのころの記憶が一瞬だけオーバーラップして見えた。





『あなたに、会いたい。』






 ・・・不思議な言葉。

 当時はなんの脈絡も無く、僕はその手紙を出した人物が、以前僕が転校してきた学校に居た同級生の内の誰かなのであろうと勝手に思った。それほどに当時の僕を困惑させ、また現実感を喪失させるのには強烈すぎたあの手紙。

 一年かかって、僕はその相手を見つけた。
 差出人は、真奈美だった。

 そう。当時の僕がどんな状態だったかを、勿論彼女は知る由もなかった。だから・・・。

「・・・今頃になって、変な夢ばかり見るんだ。」

「夢?」 真奈美は僕の顔を注視した。まるで、次の言葉が希望に繋がるのを待っているかのように。

「うん。とても暗くて、・・・人にはあんまり話したくない夢。」
 その言葉を聞くと、真奈美は再びうなだれてしまった。

「そう簡単に。」 真奈美がゆっくりと口を開く。そして一言一言選ぶようにして言葉を紡いでゆく。

「そう簡単に忘れちゃったら、可哀想ですもんね・・・。」

 僕は何も言わなかった。いや、言えなかったのだ。

「でもアナタのそういう所も、とても好きです。」 そう言って真奈美は目をごしごしと拭いた。・・・また泣かせてしまったのか、僕は・・・。

「ゴメン。」

「・・・くすっ。謝らないで・・・下さい・・・。」 半分泣き笑いの表情のまま、真奈美はそれでも気丈にこう言った。
「まだまだチャンスは私にもあるんですもの、ね。」

「・・・さてと。今日はどこに行ってみようか?」 僕は少しだけ救われた心持ちで努めて明るく喋りだした。

「あっ、私、今開催している『花の万博』に行ってみたい!!」 ぱっと花が咲いたようになる真奈美の顔。
「陽が落ちてからじゃ折角の花が勿体ないね。急ごうか。」
「はい!!」

 僕は自分から会計票を手にすると、真奈美と一緒に席を立った。




 その日は陽が暮れるまで真奈美と遊んだ。
 久しぶりに、心から笑ったような気がする。


 夢を見ている。

 完成にはほど遠いラッシュフィルムを延々と見せられているようだった。断片的に過去の記憶が浮かび上がっては、また次のシーンにかき消されるようにしてパンしてゆき、やがてそれらは一つの大きな奔流となって僕を包んだ。





 高二の冬。
 病床の彼女。
 僕が渡したフォーチュンリング。
 四角い窓。
 冷たいミルク色の空。
 一筋の涙。
 蜂蜜の瓶。
 困ったような色白の笑顔。
 白い部屋。
 パイプベッドについてるキャスターの頑丈さ。
 紅い薔薇の花。
 優しいキス。





それらは既に彼方となり。





 黒い飾りと黒い服。
 他人事のような風景。
 肌を刺す風の冷たさ。
 煙。
 写真の中の僕の知らない彼女。
 誰よりも幸せにならなくちゃいけない筈の。
 残滓。
 全てが砕けて手のひらからこぼれ落ちた世界。
 ポケットの中のイニシャルが彫ってあるシルバーのリング。
 消える浮遊感と着実に降りてくる現実。
 雪のように。
 慟哭。







 ・・・気が付くと、僕はカーテンの隙間から差し込む朝の日差しの中でベッドの上に上半身を起こしていた。心臓は早鐘のように脈を打ち続け、・・・僕は両の手を握りしめ、歯を食いしばっていた。
 頬が濡れているのに気づいたのは、ちょうど洗面台でひげを剃ろうと思って鏡を見た時だった。


 あの日の、あのたった一行の手紙を見てから、僕は何かを探しに行くことで「彼女の死」を紛らわそうとしていただけだったのだ、と気づくのに随分と遠回りをしてしまった。

きっかけは何でも良かった。
相手だって、誰でも構わなかったんだ。
欠けたパズルのピースを埋めてくれさえすれば。

 真奈美が自分が差出人だと告白してくれたその日、僕は真奈美に全てをうち明けた。真奈美以外にもあちこちを旅して仲良くなった女の子がいること。あの手紙が来る少し前に、僕が東京の病院にいた彼女を永遠に失ったこと。何かに縋っていないと壊れてしまいそうだった自分の弱さ。本当は自分こそが真奈美から元気をもらったのだということ・・・。

 最初のうちこそ僕の前で泣きじゃくっていた真奈美だったが、程なくして真奈美の方から口を開いた。
「いつか忘れることができたら、お電話を下さい。」と。
 それすら、僕には驚きだったのだけれど。

 今はこうして大学生になり、稼いだバイト代を使って飛行機で真奈美に会いに来られるぐらいにはなった。
 もう、いい加減忘れられると思っていたのだが。・・・意外と女々しいんだな、僕は。例え夢の中の出来事とは言え、未だに彼女達が出てくるなんて・・・。

 そこまで考えて、僕は自分の思考の中に、今までとは何か違う「違和感」を感じた。






 ・・・彼女、・・・「達」? 確かに今、僕はそう一括りにしようとして・・・。






「あっ、おはようございます!!」 通りの向こうから真奈美が手を振る。
 僕は真奈美に手を振り返す。先ほどのことと言い、なんだか低くたれ込めた雲間から一条の光が射し込んだような気分だった。






 そうか。実際、そうなのか? 僕は、・・・そして「君」も、・・・やっと・・・。






 白いワンピースに身を包んでとびっきりの笑顔を見せてくれる真奈美の姿を見ながら、僕は今夜こそもう「あの夢」を見ることはないだろうと感じていた。





 忘れられない記憶は、いっそ思い出に変えてしまえばいい。





 真奈美のその後ろを、これから部活にでも行くのであろう高校生達の姿が笑い声と共によぎった。
 どこまでも青い空が、もうすぐそこまで夏が迫っていることを告げていた。 

Fin.


(あとがきのようなもの)
「人間は忘れることができるからこそ、前に進むことも出来る。」
 誰の言葉だったかは忘れましたが、確かにそうです。
 何が大事なのかをいつも考えていたいですね。←(ちょっと語りモード)

 ちなみにBGMは、"GENESIS"のナンバーからそのまんま、"Tonight,tonight,tonight."です。
 ぜひ一度聴いてみてくださいませ。すんげー暗い歌詞です(^^;A



“Sentimental Graffiti”はNECインターチャネル/マーカス/サイベル/コミックスの著作物です。.