96年2月のようす   

 

 毎日「暑い〜。」と言いつつ過ごしています。雨は全く降りません。ほこりで町中白っ

ぽくなっている上、郊外の焼き畑が始まったらしく、もやもやとした煙が朝もやのように見えることもあります。

 あてなは午前、午後の2回家の周りを散歩するのでずいぶん日焼けしてしまい、4月にパナマに来たときに「色が白いわね〜。」と言われたことは遠い過去になってしまいました。

 散歩の途中でガルディア(警備員)と握手し、八百屋によっておやつを買い、道路にある全てのごみ箱のふたを閉めて帰ってきます。パナマの人はとても子供好きなので、あてなは誰からも声を掛けてもらえて幸せです。

 

  運動会

 

 2月3日(土)は運動会でした。「冬なのに運動会なんてできるの?」心配していた新潟県人でしたが、何のことはない、かんかん照りの季節なのでした。

 今年は主人が雨男らしく、行事という行事全てに雨が降ったのですが、この日もやっぱりほんの少し雨が降りました。

 芝生のグランドは新潟小学校のグランドくらいしかないため、直線で35bがやっとで思い切り走ると金網にぶつかりそうになります。心理と侑理は3人で走って1等と3等。

生徒の数が少ないので、時間はかからず出番が多く、退屈しない運動会でした。

 日本国大使や中南米を巡回中の医師も競技に参加し、何やら格調高い町内運動会という趣でした。

 

  カーニバル

 

 2月17日(土)〜20日(火)はカーニバルの4連休でした。もともとはクリスチャンのお祭りらしいのですが、この四日間は、大通りを閉鎖して朝から晩まで騒ぎまくります。音楽をガンガン鳴らし、大型トレーラーにミス.パナマや、張りぼての人形を乗せた山車が通ります。互いに水や紙吹雪をかけあい、街中ごみだらけ。心理、侑理も(主人まで)紙吹雪をかけ合って楽しみました。

 この期間、会社もお店も休みになるので、カーニバルの前の日にはパンを買う人の列ができます。また、最終日の20日は夜が明けるころまで騒ぐので、21日は午後にならないと誰も出勤しないそうです。騒ぎに乗じて泥棒や殺人など、治安が悪くなるので要注意。お金持ちはさっさと旅行に出てしまい、庶民のお祭りになっています。

 カーニバルを見に行った夕方、出店でピザを食べようとした私たち。余りおなかがすいてなかったので、「一人一切れで十分だね。」とわざわざ絵にかいて4切れ注文しました。しかし、ニコニコしている店員にイヤ〜な予感。予想通り、でかい丸ごとピザを4枚持ってきました。文句を言ってもだめ。パナマ人と日本人の食べる量は余りに違うので一人一切れしか食べないなんて絶対に納得できないことなのです。

 

  〈パナマの新聞・LA PRENSAより〉

2月21日(水)

◆今年パナマ市内で行われたカーニバルで出たゴミは125 トンにも上り、首都衛生局の職 員200 人がその清掃に当たった。

◆このカーニバル中に赤十字では、けが人230 人、交通事故による負傷者43人、銃弾を 受けた負傷者2人、刃物による負傷者28人、病人66人、出産3人を応対

2月22日(木)

◆カーニバル中の死者は全部で20人で、海や川で溺れかかっていたところを救出された 者の数は70名にも上った。

◆サントトーマス 病院救急病棟の報告によれば、このカーニバル中に銃で撃たれて死亡した者3 人、負傷した者2人。刃物で刺されて負傷した者5人が記録された。

 

 私たちもこの連休を利用してどこかへ旅行に行こうと思ったのですが、どこのホテルも満員。仕方がないので魚釣りに行くことにしました。

 

 一日目に行ったのは、『イスラ.グランデ』。カリブ海側なので海の水がとてもきれいで熱帯魚の泳ぐ姿が良く見えます。めったに水に入らない私も我を忘れて潜りまくってしまいました。シュノーケルが無かったのが残念ですが、足の立つところに魚がたくさんいるのでちょっと顔をつけるだけで十分です。

 

 二日目に行ったのは『プンタ.チャメ』。砂浜一面かにの穴だらけ。しかし、みんなでかにを捕まえるのに必死になっているうちに砂浜が無くなってしまうほど干満の差が激しい海で、魚釣りどころではありません。おまけにこの日は車から降りるのもいやなくらいの暑さ。熱い砂浜は誰一人いない貸切りビーチでした。

 

 三日目、四日目は、タボガ島です。フェリーで1時間の島ですが、連休の異様な混雑のため、日帰りをあきらめてホテルに一泊しました。船着場の橋の下にはうようよと魚が泳いでいますが、なぜか一匹も釣れません。意地になった主人がみんなが昼寝をしているあいだに2時間かかってやっと一匹釣り上げ、レストランで料理してもらって食べました。

 そして、毎日釣りしたにもかかわらず、釣れた魚は後にも先にもこの一匹だけだったのです。                               

 

 

  一方通行

 

 2月24日(土)から、パナマの主要道路と私たちの住んでいるマルベージャ地区などが突然一方通行になりました。パナマ市内の慢性的な渋滞を解消しようという計画でした。

 実は、この計画は1月1日から実施されるという話があったのですが、「パナマのことだからたぶん何年も先のことだろう。」と、誰もが実現するとは思っていなかったのでした。

 ところが、この計画を提案したのは日本の海外協力隊(JICA)だったので、日本人の几帳面さを発揮して2ヵ月遅れにはなったものの実現させてしまったというわけです。

 さて、その結果、渋滞が減ったか?……………………………………答えはNO。

 パナマの交通渋滞の原因は違法駐車、車の多さ、道路の狭さ、運転マナーの悪さ、事故の多さ、そして警官の交通整理によるもので、一方通行にしたからといってすぐに解決するようなものではなかったのでした。

 その上、無理やり実施したものの、どこがどういう一方通行なのか、新聞に発表されたのが2週間ほど前のこと。もちろん新聞を買う人など非常に少ない国ですから、ほとんどの人は知らないと言ってよいでしょう。一方通行の標識すらありません。たとえ標識があっても「行くもんね。」という感じでかまわず逆進します。

 その日は街中パニック状態。あちこちで事故が起こり、「パッパーッ!」「ブッブーッ

!」とクラクションを鳴らすのですが、永久渋滞になっていて、窓から見ていると「ばかね〜。」と思わずにはいられません。

 

  〈パナマの新聞・LA PRENSAより〉

2月26日(月)

◆交通規制が変更されたが、今朝8時には各地で大渋滞が発生。一般市民やバスやタクシーの運転手業者からは、不評を買っている。この改正は近く再度調整を受けることになるもよう。

 

 主人はアパートと背中合わせの日本人学校に行くのに車で行くとぐるぐる回って10分以上かかるようになってしまいましたし、心理と侑理は、朝のバス時間が20分も早くなった分ドライブしてから学校に着きます。

 歩けばたったの3分の道のりなのですが。

 

  お別れの季節

 

 年末・年始から、学年末にかけて、日本へ帰国する方、他国に異動する方がたくさんいます。日本人学校の教員は任期が三年と決まっていますが、企業の方の異動は様々のようで、この季節になると、「○○さんが帰国するそうよ。」「△△さんもそろそろかしら。」といったことが話題に上ります。

 今年帰国する教員は6名。派遣教員10名のうちの半分以上が替わるので、主人も毎日引き継ぎで忙しそうです。

 また、日本人学校の生徒もこの一年で、23人が帰国、他国へ。転入が4人と、ずいぶん入れ替わることになります。ちょっと心配なのは児童数が減ってきていること。

 1学年の心理、侑理のクラスは入学時に13人いましたが、3月末には5人減ってしまいます。4月になって、5人も増えるとは考えにくく、さみしくなりそうです。

 また、新入学する予定の児童は4人しかいないため、全校生徒数が10〜15人減るのは確実のようです。

 私が「新しく来る先生は子供がたくさんいるといいね。」と言うと、主人が「中南米の日本人学校はどこも同じことを言ってるよ。」と言います。

 

 

  引っ越し

 

 6人の教員が帰国するので、引っ越しの手伝いをする事になりました。「引っ越しは慣れたもんだ、まかせとき!」と行ってみると、全て引っ越し業者がやってくれる『おまかせパック』そのものでした。

 ところが、パナマ人にまかせると品物が無くなるとか、ゴミ袋まで箱詰めするとか、食器の箱をポンポン投げるといううわさなので、奥様方はほとんどの荷物を自分で箱詰めしてしまったそうです。そこで、もっぱら『見てるわよ!』というお手伝いです。目の前で大きな木箱に段ボール箱を詰めて釘を打つまで見届けるのが鉄則なので、段ボール箱全てに番号を付けてチェックします。

 自分で作った瀬戸物の『ポジェーラ』を25個も持って帰る方、特別注文して作ってもらったソファーベッドを持って帰る方、アメリカ製のバーベキューセットを買って帰る方、パナマ製のビールを10箱も買って帰る方、クリスマスツリー用品だけで段ボール箱6箱ほどにもなった方、Tシャツを200 枚も買った方など実に楽しい引っ越しでした。 パナマに来たときは、20個ほどだった段ボール箱はずいぶん増えたようです。

「100 個を越える段ボールが日本に到着したとき、家に入るかしら?」と心配している奥様方に、「私はなるべく物を増やさないようにしよう。」と言うと、「私たちだって2年前にはそう思っていたのよ。」と言う言葉が返ってきました。        

 

  クリーニング店のその後

 

 とうとうやってしまいました。クリーニング店の受取証が無いのです。「11月のようす」でお知らせしたように、受取証が無いと絶対に服を返してくれないパナマなので困っ

たことになりました。私のスーツが一着だけですが、主人が「俺のスーツじゃなくて良かった。」と言って安心しているのでますます惜しくなるのでした。

 そこで、『この前のとき、あなたは私に紙を渡すのを忘れました。』という言葉を考えて取りに行ってみることにしました。

 忘れたのは『あなた』で『私』ではないところがミソ。自分の過失を認めないパナマならではの言い方です。

 クリーニング店の女主人は無愛想で有名です。私が店に入り、用意した言葉を言おうとしたとたん、「ワタナーべ、ウステ オルビーダ!(あなた、忘れたわよ)」と先に一言。引出しの中には30〜40枚もの渡し忘れた受取証が…。それでも「ペルドンね。」などとすぐにぺこぺこ謝ってしまう私はやっぱり日本人なのでした。まだまだパナマ人にはかないません。

 

 NOTICIAS  

 

2月1日(木)健康診断がありました。

 中南米を巡回する日本人医師団が来ました。ところが1学年は心電図を調べる予定で したが、機械がコスタリカで壊れ、検査ができなくなりました。心理・侑理の心臓は 大丈夫?

 

2月3日(土)運動会でした。

 運動会の後、私のゴルフセットやゴルフシューズを買いました。買ったところはアメ リカ軍人専用のゴルフ場のため無税でかなりお買い得です。本当は、アメリカ軍人以 外には売れないことになっているのですが「現金ならばOK。」と、秘密で売っても らいました。私がゴルフコースにデビューするはた迷惑な日はいつでしょう?

 

2月10日(日)日本人会サッカー同好会の練習試合がありました。

 なんとサッカーチーム創設以来の初勝利。相手チームの自殺点で勝ちました。

 この日は、私の○○歳の誕生日でした。すっかり忘れていたのですが、日本からのフ ァックスで思い出しました。思い出したくなかったのに…。         

 

2月11日(日)主人が月例の3J会ゴルフに参加しました。

 私のゴルフクラブを使ったためか、スコアは91で2位になりました。

 

2月13日(火)奥様のパナマ見学会でミニ.コンサートを聞きに行きました。

 演奏者はパナマ大学で音楽を教えている教授たち。大学も3月一杯休みなので、アル バイトに精を出しているようです。

 

2月17日(土)〜20日(火)カーニバルの4連休でした。

 

2月22日(木)

 1、2学年の校外学習で、チョレーラ村にある日本人の経営する牧場へ行きました。 ここでは、牛、豚の他に、ワニも飼っています。心理、侑理は牛の乳をしぼったり、 生まれたばかりの子豚を抱かせてもらったり、20センチ 位のワニの子供に触らせてもら ったりして大喜びでした。ワニが食べた牛の骸骨まで学校に持ち帰りました。

 

 

 この日の夕方7時より、大使公邸で夕食会 がありました。美味しい日本食をごちそうになりました。

 

2月23日(金)

 来年残る先生たち四人で夜中までかかって来年度の計画を立てました。

  

2月24日(土) 一方通行に変わりました。

 7時からのサッカーに行くのも地図を見ないと行けません。この日はインターナショ ナルスクールと試合をしました。前半は心理と侑理も出場し、0対0でしたが、後半 に7点も入れられてしまいました。この前のような奇跡は起こらず残念!

 夜は校長先生のお宅で送別会がありました。私は準備のために4時からお手伝いでい ろいろなお料理を手作りします。主婦業の修行になります。

 

2月25日(日) 

 パナマ運河の中にあるバーロコロナド島というところに主人が見学に行きました。そこは、島全体がアメリカのスミソニアン研究所が熱帯の動植物を自然のままで研究す るために作った巨大な施設で、200人もの研究者が実験・観察をしています。主人 はジャングルでホエザル、ハチドリ、モルフォ蝶などを間近に見たと自慢しています が、ついでに吸血ダニにあちこち刺されたらしく、腫れるやら痒いやら。「留守番で 良かった!」と思う私と子供でありました。

    

 

 

 3月17日(日)に主人の母、姉、姪、そして私の両親の5人がパナマに来ることになりました。心理、侑理は待ち遠しくてたまらず、「いつ来るの?」「もう何日したら来るの?」と同じことばかり聞いています。お土産に『ビーダマン』というおもちゃを頼んだのでそれも楽しみなのでしょう。