今週も『
IT 時代の震災と核被害 (
コンピューターテクノロジー編集部、
インプレスジャパン、2011/12/11 初版)』。
確か『
ふたつの震災 [1・17] の神戸から [3・11] の東北へ (
西岡研介・
松本創、講談社、2012/4/19 初版)』にもあったと思うんだが、「平常時」という表現が何度も出てくる。
つまり、行政というのは平常時の機構だ、というのである。
緊急時には行政に頼らざるを得ない、というのが当然だと思っていたので、これは虚を突かれた感があった。
だが、それは確かにそうなのかもしれない。行政の動きは法律に従ったもので、なにかをする場合 (しない場合でも) 必ず法的な責任が伴う。大災害が起こって、その責任のありかがわからなくなってしまうと、途端に立ち往生する。これは (ある程度は) やむを得ない。
前に「英断」という表現を使ったが、それも同じで、「俺が責任を取る」と言って超法規的な行動をせざるをえない。それがいくつか重ならなければ動けなくなってしまう、というのが現実である。
あるいは、県から市、市から町内会、という構造もそうで、どこかが断線してしまえば、やはりすぐに動かなくなる。壊れたものを修復するために、その壊れたものが必要、という堂々巡りに陥ってしまいかねないのである。
そういえば、近年は、救助が来るまでの三日はしのげるくらいの装備を用意しろ、などと言われることが多いが、それってそういうことだったのだろうか。
ないだろうな、と思って「堂々巡り」を調べてみたが、やってみるもんで、「
でんでんめぐり」という語が見つかった。
昭和 33 年の衆議院の議事録に
あるが、発言しているのは新潟選出の議員らしい。委員会という公の場での発言だから、あるいは「気付かない方言」なのかもしれない。
一応、民間会社ではあるが、
NTT の英断もある。
NTT は災害が発生すると、その地域に行って、状況を確認すると同時に、臨時の電話機を設置する作業をする。
そこで、被災者から、自分の無事を知人に伝えるように頼まれる、ということがあるらしい。
これはある意味、深い。我々は「電話をかけたい」のではなく「伝えたい」のである。それをストレートに他者に依頼するとこうなるわけだ。
岩手支店は、それを受け入れる決断をした。
どうしたかというと、メモ用紙を渡して、伝えたい内容と相手を書いてもらい、支店に戻った社員が、その相手に電話をかける、というとんでもなくアナログな方法を取った。
それしかないだろう、という気はする。連絡が取れなかった分は
Web171 に代理登録したとは言うが、なんだかんだ言っても、Internet は信頼性という点でまだ基幹メディアだとは言えない。普及率が 75% を越えたとは
言え、機器を起動して認証情報を入力する必要があるパソコンや、バッテリーを心配しながらの作業になるケータイは、受話器をとれば停電していてもつながる (ものによるが) 電話とは根本的に異なる。
英断に話を戻すと、これに関わった NTT 社員の、「われわれは人と人をつなぐのが仕事である。もしも電話線が切れてしまったなら、それを人の力でつなぐのもわれわれの仕事だ」という言葉が素晴らしい。
ホームページに文章書いといて何言ってんだ、って話はあろうが、加藤典洋氏の電気をキーにする考えにはちょっと膝を打った。
原子炉というあれだけの大規模設備を使って何をやっているかと言うと、電気を作っているのである。やってることは、ダムや火力発電所、小規模発電の水車と一緒、というのは確かに不思議な感じがする。何もかも電気、というのは多分いびつなんだと思う。
この連載 (?) の
前半で、電子書籍にはまった知人のことを書いたが、本まで電気がないと読めない、って状況はちょっとうすら寒い。まぁ、電気がないと出版できない、って状態にはすでになってるわけなんだけども。
最後に
宮台真司氏の文章にあった、「敗戦のアナロジー」というのも気になった。
氏はわかった上で「疎開」という言葉を使っていて、その妥当性と非妥当性について検討の必要がある、と書いているが、「国難」だの「未曽有の危機」だのはよく耳にした。
そういうのを聞いてて、この国の人たちは、ひょっとしたら心の奥ではまた戦争してみたいって思ってるんじゃないだろうか、と思ったりした。