テレビ朝日の正月番組「
新春全日本なまりうたトーナメント」を見ての文章、二本目。
予選第三グループは青森から。津軽弁で
一青窈の「ハナミズキ」。
解説が微妙で、「
っこ」を「大切なものにつける」と言っている。まぁ、間違いとも言い切れないが、指小辞は「小さいもの」「可愛いもの」につける、というのが正解のはず。「小さいもの」だから、軽んじる意味で使われる場合もある。
「空を押し上げて手を伸ばす君」は「
空ばおつけで手っこ伸ばすおめぇ」。この「
おつける」が、地味ながらいかにも津軽弁らしい感じ。秋田でも言うけど。
あと、「つぼみをあげよう」の「
か つぼみだ」もよい。正確に書くと「
つんぼんみんだ」と発音されている。あとから「ハナミズキ」という単語も出てくるが、これも「
ハナんミんズキ」。
「人」が「
ふと」、この曲の印象的な部分「百年続きますように」の「百年」が「
ふぇぐねん」。これも津軽弁らしい。
「果てない夢」が「
うだで夢っこ」になっていたが、「ちゃんと終わりますように」というのが続くから、「
うだで」と解釈したのであろうか。
茨城の漁師さんは
北島三郎の「北の漁場
(りょうば)」。
どぶ汁について、「
食べてみでぇな」と言っていたが、字幕は「食べてみてぇな」。
「海の男にゃヨ」が「
海のおいらにゃヨ」になっているのは、方言訳というより、本人が猟師だから、その思いがこもっている、ということではないだろうか
上で「漁場」のふりがなを「りょうば」としているが、ここでは「
ぎょじょう」と歌われていた。理由は不明。この人や周りの人は普段「
ぎょじょう」と言っているのかもしれない。これはほかに「ぎょば」「いさば」とも読む。ググると、検索支援候補として「漁場 読み方」というのが出てくるから、調べる人が多いのであろう。
「男の仕事場」は「
おいらの稼ぎ場」。これも本人の思いか。
富山の人はお母さんらしいが、「
キトキトママ」という紹介。どういう意味だ。この番組、全般的に人の紹介には問題がある。
歌は
いきものがかりの「ありがとう」。
出だしが「
気の毒な」でかましてくる。
つぎが「
たごへご」で、意味は「でこぼこ」。
「淡い日々」が「
やこい日々」。「
やこい」は、秋田でも言うように富山でも「やわらかい」らしい。「やわらかい」から「はっきりしない」「たよりない」というような連想での意訳だろうか。
「輝いてるんだ」が「
キトキトしとるっちゃ」。こういう使い方ならわかる。
「不器用に伝えている」が「
てもじゃに伝えとっちゃ」になってるのがわからない、「てもじゃ」を単純にググっても何も出てこない。
「
なんどき」が二度、登場する。最初は「いつか」で、次が「いつまでも」。こっちは「
なんどきも」という形だったが。
この辺で気づいたのだが、伴奏はカラオケなので、コーラスが標準語のまま。ときどき食い違うのも、この番組ならではってことになるのか。
決勝進出したのは、青森。
第四グループは飛んで鹿児島。
デュエットの彼女達が自らイメージを払拭してくれたのだが、「
強かイメージがあっかもしれんけど、おごじょが歌うとむぜかふうに聞こゆっよ」。
「
むぜか」は「可愛い」で、九州各地で「
むぞか」「
むぞこい」などの形があるが、「可愛い」ではなく「可愛そう」になったりする。仏教用語の「無慙」が語源だといわれている。意味は「残酷」だが、そこから「不憫だ」が生じ、小さいもの、弱々しいものを形容するようになった、と考えればつながる。
歌は
Kiroro の「長い間」。
いきなり「
あばてんなか」がわからない。「長い間」に対応する部分なのだが、ググっても「とても」くらいしか出てこない。ただ「おびただしい」という説明もある。ひょっとしたら量が多いことを言うのだろうか。「
あばてんね」という形のほうが多い。
「仕事が入って」が「
しごっが入っせ」。単語の途中が音便化するのが鹿児島弁の特徴で、ここでも「仕事」が「
しごっ」になっている。「入って」が「
入っせ」になってるのは初めて聞いた。この形は何度も出てくる。
面白いと思ったのは、「
逢 (お) がならんとき」で、これは「逢えないとき」。
この歌のキーフレーズ「愛してる まさかね」が「
愛しちょっよ いかんこて」。歌が上手くて流れが自然なのとあいまって、「方言萌え」ってこういうことを言うんだろうな、と思った。
福岡は博多弁でテレサテンの「時の流れに身をまかせ」。
冒頭の紹介で「
見きらんでか」というフレーズが出てくる。「見ていれらない」でいかにも博多な感じ。
歌詞の方。「普通の暮らししてたでしょうか」が「
うちはなんばしよったやろうか」。この「
〜よる」で進行形を示すのも西日本っぽい。
「一度の人生それさえ」の「それさえ」が「
それでちゃ」。これは初めて聞いた。
最後の部分にある「だけどお願い」は「
だけん」。この「
だけん」は、ひょっとしたら他所の地域かもしれないが、「だけど」ではなく「だから」であったり、大して意味を担っていない接続詞だったりすることがある。
愛知は、名古屋弁で
槇原敬之の「もう恋なんてしない」。
「ヤカンを火にかけたけど」が「
ヤカンをチンチンにしたけど」になってるのはサービスか。まぁ、大意に影響はない。
冒頭で「
おみゃぁさん」だった「君」が途中で「
あんた」になってるのは、字数の問題か、それとも微妙にニュアンスが違うのか。
「一緒にいるときはきゅうくつに思えるけど」が「
一緒におるときはとろくっさく思えるけど」になってるのはどうだろう。無理に名古屋弁を入れ込もうとしたんじゃないか、って気がするんだが。
一方、「もし君に 1 つだけ強がりを言えるのなら」が「
もしおみゃさんに 1 つだけえらそうに言っとてかんけど」。「偉そうに言ってしまうのはよくないけど」というのは旨い訳だと思う。
ここからは、鹿児島が決勝に進んだ。
話は変わるが、「ひとつ」や「ふたつ」を、アラビア数字を含む形にするのは嫌いである。MS-IME がそういう風に変換してくれるんだが、俺には「2 つ」を「ふたつ」とは読めない。
決勝は来週。