こないだ博多華丸・大吉のことを書いたが、そのときに彼らが本を出してるのを知ったので bk1 から入手した。
『
博多華丸・大吉式ハカタ語会話』という。
華丸・大吉が久しぶりに博多で再会して、そのときの会話をスキットとしてハカタ語を解説していく、というもの。ゲストとして、華丸の彼女という設定で、裕実というモデルも登場する。
本というメディアだからかもしれないが、物まねなど彼らのネタはしこまれていない。
おそらく基本方針がそうなんだと思うんだが、マジメに書かれている、という感じがする。
たとえば、前書きでは、「標準語」ではなく「共通語」という表現を使う、と宣言されている。博多弁が標準でもいいじゃないか、という気概だそうだ。
さらに、取り上げられているのが「今のリアルな博多」だということも明言。
あとがきもそうで、こういう試みを、自己満足じゃないか、押し付けがましいんじゃないか、と感じながらの作業だったらしい。博多弁との付き合いとして、今までで一番ややこしかった、とも言っている。やはり、他の地域の人たちも読む本を作る、というところで距離感のとり方は難しかったのだろう。
マジメな姿勢が端的に現れているのが、各章の最後に出てくるコラム。誰が書いたのかは不明だが、「博多という地名が最初に出てくるのは続日本紀」など学術的な記述もあるし、福岡の海の幸は危機に瀕している、とか、ライオンズとホークスに対する微妙な感情などなど、その 5p についてはオチャラケなしである。
博多のほかに、宗像・筑豊・筑後、さらに福岡弁についても触れられている。
福岡という名前が、戦国期にここを収めた黒田長政の生地、岡山の福岡村に由来するとは知らなかった。
さて、中のスキット群。
6 章に分かれているのだが、それぞれが短い漫才のようになっている。
たとえば、結婚相手を紹介して欲しい、「
おきゅうと」さえ出してくれれば文句は言わない、お前
おきゅうと食わないだろう、というボケ・ツッコミがスキットをまたいで繰り返される。
「
おきゅうと」が、秋田の「
えご」であることは前にも触れた。食い方は大分、違うが。
腹が減った、という意味の「
ひだるい」を「ひもじい」で解説しているのはご愛嬌。「ひどろしい」を遠まわしに表現する女房言葉で「『ひ』という文字で始まる言葉の状態」としたのが「ひもじい」なので、順番が逆。
「
そげなこつ」を「そういうことか」と訳してあるのにはビックリした。「
げな」は伝聞を示す言葉で、そう言えば文末についたりすることもある。「
そげなこつ」イコール「そんなバカなこと」と思っていたのだが、語義 (文義?) そのものは「そういうこと」で、意味は文脈によって変わる、ということなのだった。他の場所では、華丸が彼女のヒロミに自己紹介させた後、「
げな」と言っている。「だってさ」という感じか。
これは確か、
田中麗奈が「なまり亭」に出たときに聞いたんだと思うが、小学校の運動会なんかで立ったり座ったりするときに「
ヤーッ」という掛け声を伴う、という習慣。福岡の教員指導要綱に書いてあるんだそうな。
大名 (「だいみょう」でいいの?) 地区は人口比での美容院数日本一、だそうだが、秋田もそうだったような気がする。こっちは都道府県単位、ってこと?
山笠の期間中はキュウリを食べない、というのが面白い。櫛田神社の神紋がキュウリの断面に似ているからだそうである。給食にも絶対に出てこない、というから徹底している。
「両替する」という意味の「
こまめる」と表現があるらしい。「
細める」と書けるため、「気づかない方言」なんだそうだ。
後半は、野球の試合を見てから飲み、という展開なのでちょっと乱暴な表現とか、面白おかしい表現が頻出するようになる。
「
言いたか言いの、こきたか こき」というのは、「言いたい放題」。「
こく」も「言う」だが、「ぬかす」に近いような乱暴な表現。
「
しょんべんまり」は「約束を破る」だそうだが、ググっても見つからない。同じように、「とんでもない」という意味の「
とりつけむなか」も見つからない。「とりつけ」が「ない」なのではないか、と想像はするのだが。これはひょっとしたら、ウェブに載っている方言が、昔懐かしが主体で、「今」を繁栄していないからではないか、と思ったりもする。思いつきだけど。
博多に限らずよく聞かれる「
〜しきる」は、能力可能。単に「できる」ではなく、「能力がある」と解説しているところはすごい。
コラムの前に、華丸・大吉の対談風記事も載っている。その中の華丸の一節: